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大文協は、すべての県民の団体です。活動費は、会費や県民の皆さんからのカンパでまかなっています。故郷の文化財保存に関心のある方たちの入会、カンパをぜひお願いします。

    待望の「おおいたの戦争遺跡」(大文協編)出版!
        
                   県内各書店にて販売中    
   
   大分県内に残る第二次大戦に関する主要遺跡を残らず掲載。
 
 佐賀関から県南にかけての要塞地帯、宇佐・大分・佐伯の各航空隊跡、臼杵市に残る民間人が掘った巨大防空壕、大分海軍航空廠跡に残る銃撃跡など県内には、いまだ多くの戦争の傷跡が残っています。これらの遺跡の現状を、現地調査と写真で紹介しています。
 ぜひ ご購入の上、ご一読ください。
 資料としての価値も高い本になっています。

ついに文化財保存全国協議会(文全協)のホームページが出来ました。下のがHPのアドレスです。
http://www.bf.wakwak.com/~bunzenkyou
つぎのは事務局用のアドレスだそうです。金曜日の夜が都合がいいそうですから、用事の方はお気をつけください。
bunzenkyou@bf.wakwak.com
 お知らせ 「賀川光夫先生の名誉回復の裁判を支援する会」
  事務局は別府大学文学部「利光研究室」(TEL0977・67・0101)。
 

Hot News      2000年12月以前は「昨年のHOTNEWS」へ

◎大文協、新竹田市長に申し入れ  2006.2月
  平成17年4月1日、竹田市、荻町、久住町、直入町は合併し、新しい竹田市が発足しました。その後の市長選において新しい竹田市長には牧剛尓氏が当選されました。私たち大分県文化財保存協議会は、新しい竹田市がどのような文化財行政を実施されるのか、牧剛尓新市長に申し入れました。以下がその内容です、(一部略)
(1)新しい竹田市は、この度合併された旧1市3町の広いエリアにおいて国指定、県指定,市指定、町指定を受けてきた貴重な文化財(各種有形・無形文化財、各種有形・無形民俗文化財、伝統的建造物等、史跡名勝天然記念物、埋蔵文化財)を多数保有することになりました。 新しい竹田市では、これまでの旧1市3町で指定を受けていた国指定、県指定、市指定、町指定の文化財を、新市の指定文化財として総て引き継ぎ、従来と同様に保存、保護されるのでしょうか。 もしそのようであれば、そのための具体的な施策、例えば旧市町の指定文化財として設置されていた説明板などの新竹田市の指定文化財としての書き換えなどは、どのように実行されるのでしょうか。
(2)これまで文化財の調査、保護等に当たっては、市町村の教育委員会がその責任を担ってきました。新竹田市ホームページによりますと、竹田市の教育委員会は市役所本庁に置かれ、教育委員会の文化財課の下に文化財管理係(文化財管理、史跡等環境保全、史跡等整備に関すること)、文化財係(文化財調査、文化財の保護啓蒙に関すること)、文化財管理センターが置かれています。荻教育課、久住教育課、直入教育課には文化財の保護調査等に当たる部門は置かれていません。 新竹田市は、広域化した市域に多数の文化財を所有することになりました。これらの文化財の調査・保存・指定・管理等を従来の水準を落とさず担っていくために文化財担当専門職の増員や文化財保存施設等の充実が必要だと思いますが、本庁の教育委員会文化財課では、何か具体的な措置がなされたのでしょうか。
(3)平成17年(2005)年は、太平洋戦争終結60周年の節目の年でした。戦前、竹田市の拝田原には軍需工場が疎開しグラマン機の攻撃を受け、また竹田市明治地区折立にはB29撃墜追悼碑(殉空の碑)が地元住民の善意によって建立されるなど、戦争の爪痕は深く残っています。 私たち大分県文化財保存協議会は、昨年8月『おおいたの戦争遺跡』を出版し、平和を願う証として戦争遺跡の保存を訴えています。新竹田市では、地域の歴史の掘り起こしや次世代へ平和の尊さを伝えていく試みなどはあるでしょうか。
「殉空の碑」のある現地では毎年5月5日に追悼祭が行われ、アメリカ人研究者や県外からの参加者もありますが、現地までの標識はありません。案内板の設置などが望まれます。
(4)新しい竹田市の発足により旧1市3町において保存されていた膨大な公文書、図面、写真、ムービーフイルム、録音、録画テープ等は、今後これらの地域の歴史を物語る貴重な資料として文化財的価値をも持っていくと思われます。 公文書館法は、国や自治体は歴史資料として重要な公文書などの保存と利用に関し、適切な措置を講ずる責務があると定めています。新しい竹田市は、旧1市3町の公文書などの散逸を防ぎ、安易に廃棄されることがないよう適切な保存措置を講じ、一般公開に供するべきだと思いますが、どのように対処されているのでしょうか。また地域や市の施設等に保管されている古文書については、どのように管理されているのでしょうか。
(5)新しい竹田市の誕生により、旧町名、旧村名を残すことも重要だと思われます。「地名は文化財」と言われるように、地名にはそれぞれの地域で生きてきた先人の暮らしの足跡を思い起こさせる温かみがあります。最近各地において、戦後の復興計画や市町村合併での中で失われた由緒ある地名を復活させる運動も起こっています。またこの度の「平成の大合併」に際し、歴史や伝統を無視した安易な市名の付け方に批判が吹き出しているのも事実です。幸い新竹田市では、「竹田市荻町」「竹田市久住町」「竹田市直入町」と「荻町」「久住町」「直入町」の旧名称が残されていることは、地域の歴史を伝えるものとして喜ばしいことだと思います。 新しい竹田市では、今後、地名の保存、継承や新地名の設定にどのようなお考えをお持ちでしょうか。 以上5点についてお尋ね致します。回答は文書でお願い致します。

〈 「大文協」は、1992年2月、大分県内の文化財調査、保存に尽力された故賀川光夫別府大学教授を顧問に戴いて発足した民間の組織で、県内の文化財が県民共有の財産として保存、公開され正しく活用されるよう、重要な遺跡の保存要望、見学会、学習会の開催などを行い県内の文化財保存運動のセンター的役割を果たしています。会員は団体加盟会員を含めて約180名。全国的には文化財保存全国協議会(「文全協」)の構成組織として活動し第1回「和島誠一賞」を授与されています。現在の会長は、大分大学名誉教授神戸輝夫です。 「大文協」は、1995年9月第「4回文化財フォーラム宇佐」、1999年5月「文化財保存全国協議会第30回全国大会(宇佐)」、2003年8月「第7回戦争遺跡保存全国大会(宇佐大会)」等の開催に中心的な役割を果たしました。 また昨年、戦後60周年に当り、『おおいたの戦争遺跡』(B5版、総200ページ、遺跡項目67、遺跡総数約160、写真・図版322葉、2005年8月1日発行)を刊行し、各方面から好評をいただいています。  また「平成の大合併」に伴い昨年新しい市が発足した新大分市、新臼杵市、新中津市、新日田市、新宇佐市、新豊後高田市、新佐伯市、新杵築市に今回と同様の質問の申し入れを行い、回答を頂いています。引き続き他の新市にも申し入れを行います。 〉

 ◎「しらべる戦争遺跡の事典」 十菱駿武・菊池実(編) 考古学通信 6.12
第二次大戦の戦争責任が今、姿を現す。構築された本土決戦陣地。高射砲陣地や特攻兵器出撃基地、トーチカ。豊富な図版で身近な戦争遺跡の調べ方を紹介する全国版ガイド。
421頁  本体3800円   <柏書房>
◎祝!玖珠町豊後森機関庫を買取!2006.3
  保存を要望する声が県内外から上がっていました、玖珠町の豊後森機関庫の買取りが決定しました。
 
◎大友氏遺跡の旧万寿寺跡 国史跡に申請  合同新聞 2004.10.26
大分市は二十五日、市内元町で確認された大友氏のぼだい寺・旧万寿寺跡(約三万二千五百平方メートル)を、国史跡とするよう国に申請したことを発表した。大友氏関連の遺跡では、二〇〇一年度に国史跡の指定を受けた大友氏館跡地区(顕徳町)がある。旧万寿寺跡も中世の豊後府内の重要な遺跡だけに、関係者は国指定に期待を寄せている。  国の文化審議会が来月にも文科相に答申来年二月までに正式決定する見通し。旧万寿寺跡は〇一年度の調査によって、九州乳業の工場跡地などで、溝や堀などの遺構が確認された。今回申請した場所の周辺の土地(約三万二千八百平方メートル)も来年度以降、地権者の合意を得ながら追加申請する。  国史跡になれば市は公有地化を進める。公有化の際、国が費用の八割を負担する。将来、中世の庭園や門を復元する計画。  釘宮磐市長は「大分市のシンボルとなり得る、魅力的で個性あふれる重要な遺跡群。歴史資産として保存・活用したい」と語った。  
「大分市の顔に」高まる期待  県や市の関係者は、大友氏関連遺跡は全国に誇れるもの―とし、旧万寿寺跡の国史跡指定に期待を寄せている。  県や市に遺跡の保存を訴えてきた「大友氏関連遺跡の保存を考える会」会長の加藤知弘大分大学名誉教授は「ずっと保存を主張してきたので率直にうれしい。」と喜んだ。「他都市に比べて歴史的な特徴が少なかった大分市にとってチャンス。史跡公園を整備して新しい大分の顔をつくってほしい」と望んでいる。  市文化財課の玉永光洋参事は「保存状態がいい館跡とぼだい寺跡が両方残っているのは貴重。南蛮貿易やキリシタン関連の史料が豊富で、歴史的価値が高い」と大友氏遺跡を評価する。  市は九月に景観デザインや都市計画の専門家らを含めてつくった「大友氏遺跡を活(い)かしたまちづくり検討委員会」の報告などを基に、史跡の保存、整備に取り組む。  県教委文化課の渋谷忠章参事は「県都の顔になるので、県にとっても重要な遺跡。発掘調査や史跡整備を積極的に支援していく」と市教委との協力態勢を取っている。  大友氏遺跡 1998年、土地区画整理事業に伴う調査で大規模な庭園跡が出土。守護・戦国大名として名をはせた大友氏の館跡と分かった。土塁跡や建物跡、南蛮貿易やキリシタンに関する史料が多数出土している。
◎大友氏・史跡公園に 九州乳業と県酪農協所有の遊休地 合同新聞
大友氏関連の史跡公園になる見通しの九州乳業と県酪農協同組合の跡地(大分市元町)  
九州乳業と県酪農協同組合(野津原町、代表はいずれも江藤源哉氏)が大分市元町に所有する遊休地を、大分市が大友氏関連の史跡公園にする方向で、買収する見通しであることが二十四日、分かった。  
遊休地は、二〇〇〇年に野津原町へ移転した九乳の工場と県酪農協の本所跡地計約三万四千平方メートル。JR大分駅から約二キロと市中心部に近く、まとまった面積の土地であることから活用方法が注目されていた。当初、県や市町村会の研修施設用地にする話もあったが、〇二年に大分市が発掘調査したところ、寺院に関する遺構や遺物を確認。  
十六世紀後半の中世・府内城下町を描いた府内古図に記された大友氏の菩提寺・旧万寿寺の一部であることが分かった。遺構の保存状態は良好で、中世の大名の館(同市顕徳町)とセットで残っている例は全国的にも珍しいため、史跡として保存しようと検討してきた。  大分市は既に「国指定史跡」にするための申請をしており、指定後に文化庁や県の助成を受けて買い上げの手続きに入る。県酪農協もこの件に関し、十一月七日に臨時総会を開いて土地売却の承認を得る。 [2004年10月25日09:28]
◎聖嶽勝訴 遺族らが報告集会
 「週刊文春」の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡=本匠村=ねつ造疑惑報道に抗議し、二〇〇一年三月に自殺した賀川光夫・元別府大学名誉教授=当時(78)=の名誉棄損訴訟で遺族側の勝訴が確定したことを受け、十五日、大分市の県弁護士会館で報告集会が開かれた。遺族らは勝訴を喜び、支援者の協力に感謝しながらも、変わらない無念さをのぞかせた。  集会は「賀川光夫先生の名誉回復の裁判を支援する会」(梅木秀徳会長)の主催。原告の長男洋さん(48)は、賀川氏の妻トシコさん(80)と共に、遺影を持って出席。約百人が黙とうをささげた。  洋さんは「皆さんの支援のおかげで今日を迎えることができましたが、裁判に勝っても父は帰ってこない。ずさんな取材によってペンは凶器になる。文芸春秋は悔い改め、墓前に手を合わせてほしい」と述べた。その上で、「言論の自由は非常に大切であり、守っていかなければならない。それを担うマスコミは責任の重さを実感してほしい」と強調した。トシコさんは「皆さんのおかげでここまで来ることができました」と礼を述べた。  遺族側弁護団の鈴木宗厳弁護士は「一審から上告審まで極めて異例の速さで判断され、機を逸することなく名誉回復が図られる」と評価した。  文芸春秋に対しては、「早急に謝罪広告を掲載するよう誠実な対応を期待したい」とした。  集会終了後、遺族らは賀川氏が眠る別府市内の霊園を訪れた。  訴訟の経緯 週刊文春は2001年1―3月、聖嶽洞穴遺跡で賀川氏が石器などをねつ造したかのように報道。賀川氏は「死をもって抗議する」として自殺した。遺族は同年11月、「記事は故人が遺跡をねつ造したと断定し、全業績、人生を否定した」として、文芸春秋などに謝罪広告の掲載と損害賠償を求め提訴した。1審大分地裁、2審福岡高裁とも遺族側が勝訴。最高裁第1小法廷は15日、2審判決を支持し、文芸春秋側の上告を棄却。謝罪広告の掲載と920万円の賠償を命じた判決が確定した。 [合同2004年07月16日]
◎謝罪広告命令は合憲 遺族側の勝訴確定 聖嶽訴訟で最高裁
 「週刊文春」の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡=本匠村=ねつ造疑惑報道に抗議し、二〇〇一年三月に自殺した賀川光夫・元別府大学名誉教授=当時(78)=の遺族三人が、同誌を発行する文芸春秋などに損害賠償などを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第一小法廷(才口千晴裁判長)は十五日、遺族側の請求を認めた二審福岡高裁判決を支持し、被告文芸春秋側の上告を棄却した。遺族側の勝訴が確定した。  才口裁判長は判決理由で、「謝罪広告の内容が単に事態の真相を告白し、陳謝の意を表明するにとどまる程度の場合、憲法に違反しない」と指摘した。  福岡高裁判決によると、週刊文春は二〇〇一年一―三月、聖嶽洞穴遺跡で賀川氏が石器などをねつ造したかのように報道。賀川氏は「死をもって抗議する」と遺書を残して自殺した。  同高裁は「記事は賀川氏がねつ造に関与したと誤信させる内容で、掲載に相当の理由はない」と判断。謝罪広告の位置を「雑誌の最初のページ」と指定し、一審大分地裁判決の認容額六百六十万円を九百二十万円に増額した。  文芸春秋側は謝罪広告について、「自らの紙誌面に何を掲載するかという最も基本的な権利を報道機関から奪い、掲載を拒否している内容を掲載させるもので、憲法で保障された表現の自由から導かれる報道の自由に違反する」などとして上告していた。  聖嶽洞穴遺跡は一九六二年、賀川氏らの調査で旧石器時代とされたが、九九年の再調査で「旧石器時代とは確認できない」と報告された。  最高裁第一小法廷には、原告で賀川氏の二男、賀川真さん(41)=東京都在住=が出廷。支援者ら約十人も傍聴した。  予想通り上告棄却の判決が言い渡されると、賀川さんはほっとした表情。支援者らは裁判所前で「勝訴」の垂れ幕を出して喜んだ。賀川さんは「大分地裁から始まり、やっとここまで来た。完全勝訴で、苦労が実りうれしく思っている。皆さんに注目して頂いて本当にありがとうございました。文芸春秋側が判決を誠実に履行し、父の墓前に手を合わせて心から謝罪してほしい」と話した。
[合同2004年07月15日]
◎聖嶽訴訟 控訴審も遺族側勝訴 賠償920万円に増額 2004.2.24合同
週刊文春による聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、二〇〇一年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫氏=当時(78)=の遺族三人が、同誌を発行する文芸春秋と編集長、取材記者に、同誌への謝罪広告掲載と三千三百万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が二十三日、福岡高裁であった。小林克已裁判長は「記事は一方的な取材に基づき、遺族の神経を逆なでした」として、文芸春秋側に九百二十万円の支払いと謝罪広告の掲載を命じた。賠償額は一審の大分地裁判決より二百六十万円増えた。謝罪広告は趣旨を明確にするため、(1)掲載者名(文芸春秋と編集長、取材記者)(2)あて名(遺族三人)を記すよう命じ、掲載場所を特定した。  判決理由で小林裁判長は「記事は賀川氏が遺跡のねつ造に関与した疑いがあると報じたことは明らか。掲載の緊急性はなく、掲載に当たっては十分な裏付け調査が要求される」と指摘。「(取材は)賀川氏をいきなり訪問して話を聞いただけで(ねつ造の)疑問点を解明するような問答には至っていない。記事は賀川氏がねつ造に関与したと誤信させる内容で、掲載に相当の理由はない」と判断した。  謝罪広告については活字の大きさを指定し、原告側が求めたスペース指定はしなかったが、「掲載場所の指定は表現の自由を侵害しない」として掲載場所を特定した。  判決によると、週刊文春は〇一年一月から三月までの三回と、賀川氏の死後一回の計四回、聖嶽遺跡関係の記事を掲載。賀川氏は、三回目の記事が出た直後の三月九日夜、日出町内の自宅で自殺した。 画期的な判決 原告弁護団  原告弁護団は判決後、次の声明を発表した。  ねつ造報道が賀川名誉教授に対する名誉棄損に当たることを明確に認めた画期的な判決。記事内容が虚偽であると認めただけでなく、一審判決よりも大きく踏み込み、根拠の薄弱さを断罪したことは高く評価できる。 即刻上告する 週刊文春側  週刊文春の木俣正剛編集長は「容認しがたい判決であり、即刻上告する。小誌は聖嶽遺跡への疑問を記事にしたのであり、事実、その後すべての教科書から聖嶽遺跡の記述は消えることになった」とのコメントを出した。 解  説   控訴審判決は文芸春秋側の報道姿勢を批判、同社にとって一審以上に厳しい内容だった。  特に、賀川氏が自殺する直前に掲載された三回目の記事について、「賀川氏に敵対感情を抱いていると容易に知りうる人物からの一方的な取材に基づいて執筆したことは、報道機関としては著しく軽率」と指弾。  さらに、自殺後に掲載した記事は「自己の正当性のみを強調し、遺族の神経を逆なでするような内容」と批判した。自殺という重大な結果を招いたことに対し、裁判所側も「異例」(原告側弁護団)の明確な表現をしたと言える。  謝罪広告は、掲載場所を「広告・グラビアを除いて表表紙から最初のページ」と特定し、スペースについては指定しなかった。文面、活字の大きさという制約がある中で、同社側の裁量の余地をわずかに残した。 「ありがとう」笑顔の遺族/支援者集会  「本当にありがとうございました」。一審を上回る内容の判決に、原告の遺族は笑顔を見せた。しかし、「父は帰ってこない。(文春から受けた)痛みは消えない」と無念さは変わらない。「これ以上、報道被害を広げないでほしい」と訴えた。  判決後、福岡高裁近くの福岡市立中央市民センターホールで支援者集会が開かれた。友人・知人や教え子ら九州各地からの約二百人が参加。遺族側からは亡き賀川氏の妻トシコさん(80)と長男洋さん(48)、二男真さん(41)らが出席した。  弁護団長の徳田靖之弁護士らが判決内容を報告。一審判決より踏み込み、文春の取材姿勢を厳しく批判した内容を、「大変いい判決だった」と高く評価。文春側が上告したとしても、「もう敗れることはないだろう」との見通しを語った。  洋さんら遺族三人は「本当にありがとうございました」と頭を下げ、支援者に感謝するあいさつをした。  支援する会の梅木秀徳会長と九州大学名誉教授の西谷正さんが「学問を愛した賀川氏の遺志を継いで、考古学など学問全体のために頑張っていきたい」と決意を表明。九州考古学会の元会長、渡辺正気さんが「賀川氏は罪なく十字架に架けられた。考古学が発展すれば、正しい経緯がきっと書かれるだろう」と話した。  賀川さんが文春に抗議の自殺をして、ことし三月で丸三年。支援する会などは三月十三日、別府市内でしのぶ会を催す。
◎淡窓の時代ほうふつ 咸宜園跡の発掘調査で 江戸期の「硯」出土 山口県赤間産の硯  
日田市教委が発掘調査をしている広瀬淡窓の「咸宜園跡」(国史跡)から、江戸期の硯(すずり)などが出土した。後世の開発で土層のかく乱が多い中、明確な江戸期の層が見つかり、初めて遺物の時代が特定できた。淡窓が多くの門人を育てた時期で、硯は灯火親しむ教え子たちの姿をほうふつとさせている。  出土したのは山口県赤間産の硯。円形で直径八センチほど。淡窓が使っていた硯などは広瀬家に伝わっていることから、咸宜園が全国からの門人でにぎわっていた時期、門人の一人が使っていた硯とみられている。赤間では約八百年前から硯が産出されており、今でも産地となっている。  遺跡にはかつて図書館が建設されるなどしたことから、はっきりした江戸時代の土層がこれまで見つかっていなかった。今回、淡窓が住んだ秋風庵(あん)の北側から江戸期の層が出土し、硯のほか、瓦などが見つかった。  さらに北側の調査区からは、明治期の畑の畝跡が出土した。当時、畑を外部に貸していたとの記録があることから、その畑か、または自給自足の門人が耕していた畑ではないかとみられている。  咸宜園跡では一九九三年度から長期間にわたる整備事業が進んでいる。現在、秋風庵と書斎の遠思楼があるが、当時は講堂と東塾、西塾などもあり、建物配置の確認のための発掘調査が継続されていた。発掘は本年度で終了する。残念ながら土層のかく乱が多く、配置を示す明確な礎石の出土はなかったという。  今後、講堂などの建物復元と周辺整備を目指すが、大正初期の絵図などを参考に検討していくことになりそうだ。近く専門家らで構成する保存修理委員会を開き、今後の整備方針について話し合う。  文化課の後藤清課長は「淡窓の教育理念を受け継ぐ整備をしていきたい」と話している。また、咸宜園復元の資料にするため、塾が現存した時代(一八一七―九七)の写真などを探しており、協力を呼び掛けている。 [ポイント] 咸宜園  江戸後期の教育者、広瀬淡窓(一七八二―一八五六)が開いた私塾。淡窓を慕って全国各地から三千人近い弟子が学んだ。淡窓の死後は末弟らが後を継ぎ、塾は明治中ごろまで続いた。 [合同2003年11月14日

◎飛鳥時代の官衙の可能性がより高まった城原・里遺跡 「最古級」可能性高く 2003.10.10合同
城原・里遺跡、あす現地説明会  
大分市教委は十一日、飛鳥時代の官衙(かんが=古代の役所)跡とみられる大分市里の城原・里遺跡で現地説明会を開く。  昨年に続く今年の調査で、「日本最古級の官衙であることを裏付ける出土品や遺構が発掘され、その可能性がより高まった」としている。  同遺跡は、七世紀中ごろから末にかけての大型建物群跡。昨年の調査で、規格性を持って整然と並ぶ掘っ立て柱建物跡七棟などが見つかり、官衙跡か豪族の居宅跡と考えられていた。  今年は、昨年の調査個所の周辺部を発掘。新たに九棟の建物跡が見つかり、大きな建物群と柵(さく)がコの字形に配置された全体像がほぼ確認された。  規模も南北四十五メートル、東西三十八メートルと大きく、大化の改新(六四五年)の後、各地に整備された評衙(ひょうが)と呼ばれる官衙跡という見方がより強まった。  同じ台地には海部郡衙(あまべぐんが)跡の中安遺跡(八世紀代)があり、城原・里遺跡が海部郡衙の前身で海部の行政拠点だったことも裏付けられたという。  同市教委文化財課は「七世紀中ごろの官衙跡は、全国的にも少ない。律令国家が成立する前の地方の政治システムを探る上で、大変貴重な資料」と話している。  現地説明会は十一日午後一時から。同日開く「海部のまつり」駐車場の横塚公園(市内横塚)から、現地まで無料シャトルバスを運行する。海部古墳資料館では、午前九時から午後五時まで発掘作業のビデオを公開する。  問い合わせは同市教委文化財課(TEL097・534・6111内線2094)へ。

★諭吉が使った井戸 憩いの場に変身
 2003.10.9長崎新聞
慶応義塾大の創設者、福沢諭吉が江戸時代、長崎遊学中に使っていた長崎市出来大工町の井戸が再整備された。社団法人福沢諭吉協会理事長でセイコー名誉会長、服部レイ次郎さん(82)が今年8月、この地を訪れた際、荒れた井戸を見て管理者の市に相談。市は早急に対応し、今月初め、憩いの場に生まれ変わった。  福沢諭吉は一八五四(安政元)年、十九歳のときに長崎を訪れ、約一年間にわたって蘭学を学んだ。中島川沿いの光永寺にしばらく居候した後、高島秋帆の弟子で砲術家、山本物次郎宅に住み込み、同宅にあった井戸を使っていたという。  井戸は市道沿いの市有地にあり、一メートル四方で深さ約六メートル。一九三七年、慶応大卒業生でつくる長崎三田会が井戸の脇に「福澤先生使用之井」と刻んだ石碑を建立。九〇年には市が木製の屋根付きの囲いを設置した。  しかし、近年は囲いの腐食が進んだうえ、井戸が植え込みの陰になり、存在感がなくなりつつあったという。  服部さんの相談を受けた市は、井戸周辺の植え込みを取り除いて板石を敷き詰め、住民や観光客が分かりやすいように整備。腐食していた木製の囲いを交換し、“小さな道路公園”に仕上げた。 服部さんは「福沢は長崎滞在中に外国文化に触れ、国際家として開眼した。若き日に過ごした長崎はその後の活躍の原点。井戸の整備を機に、福沢と長崎の関係の研究がさらに進んでほしい」と話している。  服部さんら福沢諭吉協会の有志は二十六日、協会設立三十周年を機に長崎を訪問。井戸をはじめ、出島オランダ商館跡など福沢ゆかりの地を訪ねる予定。 【注】服部レイ次郎さんのレイはしめすへんに豊
◎遺族側「早期結審を」 聖嶽訴訟控訴審 来春にも判決  2003.9.30合同
週刊文春による聖嶽(ひじりだき)洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、二〇〇一年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫氏=当時(78)=の遺族三人が、同誌を発行する文芸春秋と編集長ら二人に、同誌への謝罪広告掲載と三千三百万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審第一回口頭弁論が二十九日、福岡高裁(小林克已裁判長)であった。  控訴審は一審(大分地裁)同様、週刊文春の記事が「賀川氏が遺跡をねつ造した」と報じたものとして名誉棄損が成立するかどうかが争点。遺族側は早期結審を求め、文芸春秋側も新たな証人などは申請しない方針を明らかにした。このため、早ければ次回の口頭弁論(十二月十五日)で結審し、来春にも判決が言い渡される見通しになった。  第一回口頭弁論で、遺族側は(1)大分地裁の判決では謝罪広告の大きさに指定がなく、小さく掲載されれば、名誉回復のために請求が認められた趣旨に沿わない(2)賀川氏以外による石器のねつ造や作為の可能性は、慰謝料を減額する理由とはなり得ない―と主張。  文芸春秋側は(1)広告掲載場所を判決で指定したのは表現の自由が制限される(2)記事は遺跡の疑義を報じたもので、賀川氏の名誉を傷つけるものではない。記事には真実性、相当性があり、名誉棄損の責任は負わない―と述べた。  大分地裁は五月十五日、「記事は賀川氏の社会的評価を低下させるもので、賀川氏がねつ造に関与したことの証明はなされていない。関与したと信じる相当の理由もない」と判断し、文芸春秋側に謝罪広告の掲載と六百六十万円の支払いを命じた。文芸春秋側、遺族側とも判決を不服として控訴した。
  原告支援集会に140人  第一回口頭弁論終了後、「賀川光夫先生の名誉回復の裁判を支援する会」(梅木秀徳会長)は、福岡高裁近くの福岡県弁護士会館で支援集会を開いた。  九州各地から会員ら約百四十人が参加。梅木会長が「これほど多くの人たちが集まったのも、先生の人徳ゆえ。これからが本番だ。精いっぱい頑張りたい」とあいさつ。原告で賀川氏の長男洋氏が謝辞を述べた。  弁護団の徳田靖之団長らが第一回口頭弁論の解説と、今後の見通しを語り、「文芸春秋側にとって一審判決の謝罪広告掲載命令が大きな衝撃だったようだ。しかし、控訴審での主張は一審の繰り返し。次回(十二月十五日)で結審する見通しで、来年三月には判決が出るだろう」と話した。  賀川氏と親交のあった九州大学名誉教授の西谷正氏と元九州考古学会長の渡辺正気氏も駆け付け、「賀川氏の名誉回復のため頑張りたい」と話していた。
◎発掘の様子そのまま 宮苑井ノ口遺跡 あす現地説明会   2003.9.22合同
県教委は二十三日、弥生時代の竪穴住居跡や甕棺墓(かめかんぼ)群が出土した大分市宮苑の「宮苑井ノ口遺跡」で現地説明会を開く。多くの人の参加を呼び掛けている。  同遺跡は、八月初めから実施している県道小挾間大分線の道路改良工事に伴う埋蔵文化財発掘調査で出土。これまでの調査で、弥生時代―古墳時代(約二千年―千四百年前)の土器を含む複合遺跡と分かった。弥生後期後半から古墳時代前期(約千七百年前)にかけての集落遺跡が中心となっており、竪穴住居跡五棟、竪穴三基、溝一条のほか、小児用甕棺墓十二基も出土した。  遺跡からは、まだ甕棺墓を取り出しておらず、発掘の様子をそのまま見ることができる。  県教委文化課は「集落のすぐ近くに小児用甕棺墓群があり、赤色顔料を中心に放射状に弧を描くように配置されているのは珍しい。子どもを手厚く葬ったこともうかがえる」と話している。  現地は、JR久大線賀来駅の西側。大分市中心部から大分医科大学方面に向かう県道大分挾間線などから行ける。  当日は駐車場も準備。午前九時半から受け付け開始、同十時から開会式。説明は同十時十五分から十一時まで。
◎豆田地区の伝建指定へ保存条例あす提案 日田市議会  2003.9.2合同
日田市は古い商家が残る同市豆田地区が、伝統的な集落や町並み景観を保存する国の制度「伝統的建造物保存地区」(通称・伝建)の指定を受けるため、「市伝統的建造物群保存地区保存条例」の制定案を、三日開会予定の市議会九月定例会に提案する。議決されれば、二〇〇四年度中に文部科学省に選定を申し出る。  市は指定を目指し、昨年度から保存対策調査を実施。伝建に指定されれば、税制面、補助金などの優遇措置を受けられる半面、増改築や外観変更などに制約を受けることになる。市は調査と並行し、住民の理解を得るため、豆田地区の十カ所で計十四回、地元説明会を開き、制度の周知を図った。  市は議決が得られれば、学識経験者、行政関係者、住民代表で構成する保存審議会を今秋に発足。保存地区を決定し、保存計画を策定。来年度には選定を申し出ることにしている。  全国で六十一カ所がこの制度の指定を受けている。豆田地区が伝建指定を受ければ県内で初めて。  市は「まずは豆田地区の伝建指定を目指す。今後、この動きが市内の他の地区にも広がることを期待している」と話している。
◎ 中野幡能氏の講演内容をまとめた冊子「宇佐八幡と法蓮」。県内の図書館などに寄贈 宇佐八幡研究の第一人者・中野幡能さん 講演記録を冊子に
 2003年09月01日 合同
院内町の「ふるさと高並法蓮まつり」実行委員会(岡本省司会長)は、宇佐八幡研究の第一人者で、宇佐市の中野幡能さんが昨年八月に同町文化交流ホールで講演した内容を「宇佐八幡と法蓮」と題した冊子にまとめた。  法蓮は現院内町の小坂地区に生まれ、七世紀―八世紀にかけて豊前地方を中心に活躍した僧侶で、宇佐神宮の創立に深くかかわった。同神宮内にあった弥勒寺で初代別当を務め、国内で初めて神仏習合を始めたとされる。  講演した中野さんは一九一六年、宇佐市出身。東京帝国大学文学部を卒業後、九州大学大学院講師、別府大学教授などを歴任した。  講演の中で中野さんは、法蓮の生い立ち、宇佐神宮とのかかわりを中心に、八幡文化を紹介。八幡文化の真の姿は神仏習合にあり、明治初期に政府が進めた神仏分離でなくなった弥勒寺の復元を訴えている。  神仏習合の概念があるのは世界で日本だけと述べ、その発祥となった宇佐神宮と、弥勒寺僧侶の修行の場であった国東六郷満山の世界遺産の登録を提言している。  同実行委員会は「講演内容が素晴らしく、記録として残したい」と、講演テープを基に原稿を作成。このほど冊子が完成した。A5判で五二ページ。千部を印刷し、当時の聴講者や宇佐市郡、豊後高田市、東西国東郡の役場、宇佐市民図書館、大分市の県立図書館などに寄贈。問い合わせは同実行委員会江口隼一さん(TEL0978・42・5692)へ。
◎「栖鳳楼」高い評価 「例を見ない建築物」3ヵ年事業まとめる  2003.7.30 合同
玖珠町の末広神社栖鳳楼(せいほうろう)保存修理委員会(穴井赳会長)は、二○○○年から三カ年計画で取り組んだ、町内森の末広神社境内にある県指定有形文化財栖鳳楼の保存修理事業に関する工事報告書をまとめた。  報告書はA4判サイズ。本文五五ページをはじめ、図面一九ページと写真六一ページの計一三五ページの構成。三百部を印刷し、町内の各地区公民館やわらべの館、メルサンホールのほか、県内の市町村教委、国内の主な文化財関係の博物館などに配布した。  本文では建物の歴史的背景や工事の概要に触れ、修理前の破損状況についての調査事項を説明。図面の項では、一、二階の平面図や東西南北の立面図などで、構造を詳しく分析。写真は百八十三枚を入れ、修理全体や内部構造の様子を分かりやすくまとめている。  今回の保存修理で、当初二階とみられていた建物は、通し柱が一本もなく、階段が後付けされていたことなどから、建築の途中で平屋から二階に変更され、一階の棟は南北に、二階の棟は東西に組まれていることが判明した。  報告書を監修した、九州芸術工科大学芸術工学部環境設計学科の宮本雅明教授は、建物の構造の変化や古文書から、「森藩のぼだい寺安楽寺が火災にあった後、建築途中の栖鳳楼に藩主が“御成り”する書院座敷が二階に急きょ増築された。また藩主の私的な場所として用いられたことがうかがえる」と考察。  「栖鳳楼は“御成り座敷”としての性格と、藩主のお茶屋としての性格を備え、斜面の立地を生かして上下に重ね、閉じられた庭園と開かれた眺望を獲得した、例を見ない建築物」として高い評価を与えている。
◎7万年前の埋没林、佐田町長が保存方針 山陰中央新報 2003.6.18
 島根県佐田町上橋波の農道工事現場から発見された七万年前の横見埋没林について、同町の荒木孝町長は十七日、「貴重な遺産であり、農道も生かしながら、樹木、地層を保存したい。全力を挙げて国、県などに支援を要請する」と表明した。今月下旬には、専門家などによる調査検討委員会を立ち上げる。  荒木町長は、開会した六月定例議会の冒頭、公式の場で初めて保存の意向を明らかにし、今議会に調査費として百万円を計上した。全面保存するかどうかなどについては、専門家や町民の意見を尊重することにしている。  調査検討委員会は、島根大の徳岡隆夫名誉教授をはじめ、県、地元の専門家などで立ち上げる。町は、樹種判定や年代特定、土壌の花粉分析、軽石の成分分析などを計画しており、同委員会の検討材料とする。  同埋没林からは、九日までに新たに一本の埋没樹木が見つかっており、当初の十本と合わせ十一本が確認されている。  荒木町長は十八日に澄田信義知事に、保存に向けた陳情を行うなど、各方面に支援を要請する。  また、要望が強い現地見学会は七月六日に実施する。  荒木町長は「農道との両立が望ましく、農道をう回させることも視野に入れて検討したい。三瓶の小豆原埋没林とわずか八キロしか離れておらず、一体的な整備が望ましい」としている。
◎国史跡の大友氏館跡 2千平方メートルを追加指定   2002.11.16合同
国の文化審議会が十五日開かれ、県内からは国史跡「大友氏館跡」(大分市顕徳町)の指定区域追加が決まった。これで同館跡は、館跡と想定される約二百メートル四方(約四万平方メートル)のうち、約35%の約一万四千平方メートルが指定されることになる。  同館跡は、戦国時代に北部九州の六国を治めた「大友氏」が守護所を置いた場所。館の北側は築地塀跡、西側は土塁跡、南東部では東西八十三メートル、南北十六メートル以上の庭園遺構が見つかっている。  昨年八月に九千九百平方メートルが国の指定を受け、ことし三月には二千百二十平方メートルを追加指定。今回、新たに追加されるのは地権者の同意を得た館跡の南東部、中心部付近、東部、北端部に当たる八カ所(計二千百十四平方メートル)。資料調査の結果などから、大友氏が政務を執った「正殿」周辺や日常生活で使ったエリアとみられている。  大分市は館跡全体の国指定を目指しており、指定される用地は今後、公有化と調査を進めながら、将来の整備のための基礎資料づくりをする。  市教委文化財課は「今後も地権者の方の協力を得ながら順次、指定を進めたい」と話している。  
●「仏の里」くにさきを探る 六郷山寺遺構確認調査  2002.10.27 合同
多様な成立・発展 基本的景観は江戸初期  「仏の里」の名で呼ばれる国東半島は、県内はもとより九州でも随一の寺院の密集地帯として知られている。中でも、律令制度下に六つの郷が置かれた国東の地に所在することから、「六郷山」の名で総称される天台宗寺院は、遠く古代から現代に至るまで独特な仏教文化をはぐくんできた。しかし、これら六郷山の寺々は長い歴史の中で廃寺化が進み、場合によっては、寺跡さえ分からなくなったものも数多い。  県立歴史博物館では、失われつつある六郷山寺院の現状を記録・保存するため、一九九二年から二〇〇一年までの一〇年にわたり、全体のほぼ九割にあたる五十七寺の調査をした。調査は、各寺院遺構の測量、境内範囲の確認などの考古学的調査を中心に、文献史料および仏像や石造物などの資料・遺物の調査、法会や祭礼、信仰といった民俗調査を並行して行い、六郷山の全体像を把握した。  調査によると、六郷山寺院の現況は、(1)寺名のみ残り所在地が不明なもの(2)寺跡に遺構が確認されるもの(3)廃寺となっているが建物が残っているもの(4)現在も活動しているもの―などさまざまであった。各寺院の成立・発展の仕方も一様ではなく、中には歴史のある段階で六郷山に組み込まれたもの、逆にほかの宗派に替わったものなどもあった。  まさに、多様な展開を遂げた六郷山だが、現在一般に知られる寺々の基本的景観は江戸初期、六郷山の復興・再編時の姿を伝えたものであることが明らかとなった。  (県立歴史博物館調査課長・渡辺文雄)
●小さくても夢いっぱい ミニ博物館・美術館が続々   2002.10.23 合同
近年、県内各地にミニ博物館や美術館・ギャラリーなどのオープン、計画が相次いでいる。「昭和」のレトロな町並みや日本画など、地域の歴史や個人収集物を生かした取り組み。市町村合併の動きが広がる中、地域に新たな夢と元気を与えている。  豊後高田市では十二日、旧農業倉庫を利用した「昭和ロマン蔵」がオープンした。市や市商工会議所、商店街が一体となった昭和三十年代の町並みづくりの一環だ。メーンの「駄菓子屋の夢博物館」には、オープン三日間で子どもから大人までの約五千人が詰め掛けた。  昭和三十年代、同市は国東半島一のにぎわいのまちだったという。「もう一度、元気を取り戻したい」と始まった町並みづくり。昭和ロマン蔵の夢博物館はその中核施設。自らのコレクションを展示する小宮裕宣館長は「歴史を大事にした地元の情熱が、ロマン蔵や商店街の建物復元に込められている」と話す。  同じ豊後高田市に昨年十一月、元住宅を改造したギャラリー追手口がオープンした。館長の岩永美八子さんの娘、藤江てるみさん(東京芸大大学院講師、横浜市在住)の日本画作品を展示している。口コミで一般や学生らが訪れ、岩永さんは「喜んでもらってうれしい。多くの人に絵を見てほしい」。要予約。  清川村では、十一月三日開館を目指し、浮世絵愛好者らが旧畜舎を利用した美術館づくりを進めている。農業近藤修一さん(52)らで、収集した江戸後期の歌川派など約六十点を展示する。「浮世絵は江戸の庶民文化。本物を見ることで、子供たちに夢を与えたい」と近藤さん。  国見町では江戸中期からの商家で大地主だった重光家の住宅が、四月から歴史遺産として公開され始めた(週末のみ)。国登録有形文化財で、国会議事堂の設計者で、国東町出身の建築家吉武東里の設計。  九重町飯田高原では、俳優の榎木孝明さんが美術館を建設中。自ら描く水彩画を展示する。米水津村では村職員の小田昭夫さん(52)が、「海辺の村美術館(仮称)」開設を計画。自ら収集した日本画、洋画、掛け軸などを公開し、村を訪れた人との交流の場にすることを夢見ている。  県内で次々にミニ博物館・美術館が開館していることについて、別府市で市内の古い写真などを集め資料館を開いている平野芳弘さんは「有名だから、中央だからといった時代は終わり、歴史や人など、身近なものに価値を見いだす時代になったのではないか」と話している。

●戦跡が“語る”西南戦争  踏査報告集を刊行  2002.10.22 合同
 県内外の文化財関係者らでつくる「西南戦争を記録する会」(高橋信武代表)が「西南戦争之記録」第一号(A4判・一三八ページ)を発刊した。激戦地となった県南地域には、今も百年以上前の台場=塹壕(ざんごう)=跡などが残っている。会員らは戦跡を踏査し、台場の向きから当時の薩摩軍と官軍が対峙(たいじ)した状況を再現。祖父から聞いた薩摩軍の戦いの様子なども収録している。  西南戦争は一八七七(明治十)年、中央政府に不満を持つ士族に推されて、西郷隆盛が鹿児島で挙兵した。熊本や大分などで戦いがあり、大分では延岡から北上した薩摩軍が宇目や竹田、臼杵、三重などで官軍と激突した。  県内では、各地の郷土史家らが西南戦争の研究を続けてきたが、戦跡からのアプローチはほとんどなかった。第一号では「宗太郎越えの出来事」「観音山(黒岩山)踏査記」「西南戦争の台場跡の分類」といった現地踏査の記録。「直川村の銃と銃剣」「祖父の語った陸地の村と西南戦争」「宇目町の西南戦争―駒木根隊長とツンナール銃―渡辺用馬『懐古追録』より」など、計十六の報告・研究が収録されている。  現地踏査の記録では、宗太郎越え(宇目町)に残る数多くの台場跡の向きから、両軍の進軍と対峙状況を推測。当時の記録とともに、戦闘の様子を再現している。「祖父の語った陸地の村と西南戦争」では、薩摩軍の様子が目に浮かぶように語られている。  代表の高橋さんは「現地を歩いて驚いた。今も当時のままに台場跡が残り、銃弾も落ちている。記憶が薄れる中、言い伝えや山に埋もれた戦跡などを記録として残しておきたい」と話している。今後、随時に会誌を発刊するという。  二千部を印刷。希望者に実費(一部二千五百円)で分ける。問い合わせは高橋さん(TEL097・521・9205)まで。

●中津・大新田海岸 「護岸を後退」正式決定   2002.10.21 合同
カブトガニなど希少生物が生息している中津市大新田海岸の整備の在り方などを検討する「大新田地区(舞手川河口付近)環境整備協議会」が二十日、県中津総合事務所で開かれた。会議では、高潮対策などで当初予定されていた護岸の位置を後退させる「セットバック方式」で砂浜や自然を守ることを決めた。県も二〇〇三年度予算に盛り込む方針。  舞手川河口はカブトガニをはじめ、野鳥など貴重な生物が数多く見られる。だが、海岸の浸食や高潮被害も懸念されるため一帯の海岸に護岸が設けられてきた。舞手川河口近くでも百八十メートルの護岸が計画されたが、砂州の変化など環境への影響を考慮して整備の在り方を検討してきた。  採用が決まったセットバック方式は、当初、海岸に直線状に造る予定だった護岸を階段状に曲げて陸地側に後退させ、河口部分の砂州などの自然を広く残すというもの。舞手川の西側部分に計画されていた百八十メートルの護岸のうち、既に完成している六十メートルの護岸から直角に折り曲げた護岸(高さ五・五メートル、長さ百メートル)を造る。これにより高潮や浸食も防げ、貴重な生物がすんでいる砂州への影響も少なくて済むという。  護岸を後退させて自然のまま確保した一ヘクタール余りの砂州や草原は買収し、自然公園として整備することも考えられるという。

●中津市「御船寄」を市指定史跡に   2002.10.20 合同
中津藩政時代、御船寄(おふなより)と呼ばれ、藩船「朝陽丸」や随行の御用船を係留していた中津市一番地(下正路町)地先の漁港を、同市教育委員会は十八日の定例委員会で市史跡に指定した。  御船寄は、中津城跡から北に約一キロの中津川河口付近にあり、同一番地に隣接する港湾状の船だまり。  現在は小さな漁港として使われているが、当時は中津藩の御座船「朝陽丸」や随行の御用船が係留し、藩主の参勤交代の際に出入港。一般船の出入りは固く禁じられていたという。  藩主の参勤で出港する際、御船手(みふなで)が歌ったのが「御船歌」(おふなうた)。豊前三大祭りに数えられる中津祇園祭では、今でも下正路町の祇園車が引き出しの時に歌う歌として継承されている。  また同一番地も、昔の中津の地名が残る由緒ある地区。  市によれば、現存する石積みの突堤や堤防下部、水面を含む約六千五百平方メートルが「中津市一番地地先の御船寄」として指定史跡になった。今後、付近の公園化などで保存を検討する。
●日田の黎明館など3カ所12件が登録有形文化財に  2002.10.19 合同
 国の文化審議会は十八日、日田市の井上家住宅、岩尾家住宅(旧日本丸製薬所)、隈まちづくりセンター黎明館の三カ所十二件を、登録有形文化財とすることを答申に盛り込んだ。県内の登録有形文化財は三十八カ所九十四件になる。水郷日田の三隈川沿いにある温泉旅館街と、大勢の観光客が訪れる豆田地区を象徴する建物が登録有形文化財になるとあって、町づくり関係者は「地域おこしに弾みがつく」と喜んでいる。  【井上家住宅】(鶴河内町)は主屋、門、酒蔵、土蔵、米蔵、味噌(みそ)蔵、納屋、石塀の八件。江戸時代後期から大正までの建物。井上家は庄屋の一族として栄え、酒造業を営んでいた。  主屋は二階建て、桟瓦葺き(さんかわらぶき)の和風住宅。外壁は木の枠組みを見せる洋風建築。酒蔵と米蔵の外観は、漆喰(しっくい)壁の下部に海鼠(なまこ)瓦を張った海鼠壁が特徴。土蔵は天保二(一八三一)年に建てられた。  【岩尾家住宅】(豆田町)は主屋、離れ、土蔵の三件。明治初期から昭和初期の建物。主屋は二階建ての町屋で唐破風(からはふ)の屋根飾りがついた入り口が残る。離れは便所、湯殿、座敷。土蔵は桟瓦葺きの切り妻造りで主屋とともに豆田の町並み景観を形成。市都市景観条例で、「景観形成建築物等」に指定されている豆田地区の特徴的な建物。  【隈まちづくりセンター黎明館】は大分銀行日田支店として一九一六年に建てられた。木造二階建て、寄せ棟造り、桟瓦葺きで外壁は煉瓦(れんが)タイル張り、外部の柱上部に幾何学模様を施している。  「地域のシンボルとして後世に残していこう」という地元の強い要望で同市が一九九九年に購入して内部を改装。昨年、黎明館としてオープン。町づくりの中核と位置づけ、展覧会やコンサート会場として使っている。  岩尾家住宅がある上町通り商店会の宿利博幸会長は「豆田の歴史の重みを観光客にアピールすることができ、活性化につながる」と期待。  隈町の後藤稔夫総代は「黎明館を観光客に『かつての隈地区を象徴する伝統的な建物』と案内してきた。町づくりにこれまで以上に活気が出る」と喜んでいる。  【メモ】文化財登録制度は、都市開発や生活様式の変化で、社会的評価を受ける間もなく消滅の危機にある近代を中心とした多くの建造物を、後世に継承していくために設けられた。築後50年を経た建造物が対象。届け出制と指導、助言、勧告を基本とする緩やかな保護制度。
●「聖嶽洞穴」訴訟 取材記者を尋問へ   2002.10.9 合同
週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、昨年三月に自殺した別府大学名誉教授の賀川光夫さん(78)=当時=の遺族三人が、同誌を発行する文芸春秋社と編集長ら二人を相手に、謝罪広告掲載と五千五百万円の損害賠償を求めた訴訟の第五回口頭弁論が八日、大分地裁(須田啓之裁判長)であった。  文春側は「現在の教科書出版社、文部科学省の見解で記事が正しいことを示している」と主張。取材記者の陳述書を提出し、尋問を申請した。  原告側は「(陳述書で)記者が、取材源の秘匿を理由に情報源を明らかにしない以上、尋問する意味はない」と反論した。  須田裁判長は尋問申請を認め、次回、口頭弁論(来年一月二十八日)で記者を尋問することになった。  「賀川光夫先生の名誉回復の裁判を支援する会」(梅木秀徳会長)の約百人は口頭弁論を傍聴した後、県弁護士会館で支援集会を開いた。弁護団の徳田靖之弁護士らは、「記事を書いた(週刊文春の)記者に、賀川先生の思いをぶつけられる場ができたと受け止めている」と話した。

●宇佐市の別府遺跡で円墳と住居跡を発見   2002.10.4 合同
 宇佐市教委は三日、同市別府(びゅう)地区での墓地拡張計画に伴い、別府遺跡南側で行った発掘調査の結果を発表した。  その結果、古墳時代後期(六世紀初め)の直径八メートル前後の円墳四基と、弥生時代後期(三世紀)の住居跡二件が見つかった。同市の古墳はこれまで、川部・高森両地区の古墳群など、丘陵部に造られた例がほとんど。今回のような低地部での古墳発見は市内でも珍しいという。  円墳四基のうち一基は、のちに石室を増設しており、だ円形となっている。副葬品はのちの盗掘や開発などによりほとんど出土しなかったが、耳飾りなどが見つかった。  別府遺跡は約三十年前から調査が始まり、これまでに北側などに集落跡、南東部に方形周溝墓や石棺などが見つかっていた。今回の調査により同市教委は「水田や集落に加えて墓地を備えた、有力集団の存在が確認できた」としている。今後、丘陵部に古墳がある周辺の有力豪族との関係を、解き明かす手掛かりになると期待している。  同市教委は遺跡についての現地説明会を六日午後一時から開く。問い合わせは宇佐市教委文化課携帯電話(TEL090・3463・5856)へ。

●大友府内町遺跡で旧万寿寺の堀跡を確認  2002.10.4 合同
 県教委が発掘調査をしている大分市の中世大友府内町遺跡で三日までに、旧万寿寺の堀跡と思われる大規模な溝跡が確認された。かつては大分川とつながる「舟入り」としても使われた可能性がある。四百年以上前の大友時代の遺物が多く出土するのではないかと期待されている。  旧万寿寺は、中世当時を描いたとされる府内古図から、同市元町の九州乳業跡地周辺に想定されている。これまで大量の瓦が出土し、寺が古図通りにあったとみられている。溝は、古図には描かれていないが、寺北側に「堀之口町」があったことから、堀の存在が想定されていた。  溝跡とみられる場所は、現在も溝状にくぼみ、表面からも観察できる。万寿寺と町屋を区画するように、大分川と直角につながっている。  今回、試掘で確認された溝は幅五、六メートル。深さははっきりしないが、かなりの深さになりそう。出土した陶磁器から、宗麟時代の十六世紀後半とみられている。  万寿寺は十四世紀初め、大友氏四代の貞親氏が禅宗(臨済宗)の寺として建立した菩提(ぼだい)寺。当時の中央の寺院を頂点とする五山・十刹(さつ)の十刹に列せられている。「八町(約八百メートル)四方」もの広さを持つ大寺院だったという。

●八湯の遺産を後世に 別府でトラスト設立を宣言  2002.9.30 合同
 別府八湯の温泉文化を伝える建物などの文化遺産を残して、これからのまちづくりに活用していこうと、「別府八湯トラスト・シンポジウム」が二十九日、別府市の中央公民館であった。主催した別府八湯トラスト設立準備委員会(野上泰生会長)は「温泉文化を守り、人々の思いが刻まれてきた大切なものを伝えていく」と、別府八湯トラストの設立を宣言した。  市内外から約二百人が参加。富山県などでまちづくり運動にかかわった経験のある日本政策投資銀行大分事務所長の牧野光朗さんが「トラスト成功のカギは、行政と市民の連携プレーにあり」と題して基調講演。牧野さんは「住民が一体感を感じられる個性を持っている街が人を引きつける」と指摘。「住民が大切に感じている街の個性を守るため、住民から動き始めて行政を支えることも必要」などと述べた。  続いて、「別府八湯の歴史的建造物を保存するために私たちができること」をテーマにパネルディスカッション。別府八湯竹瓦倶楽部の深瀬俊夫さんの司会で、▽後藤国利・臼杵市長▽豊後高田市で「昭和の町」づくりにかかわっている金谷俊樹さん▽建築家で、町並みとまちづくりを考える県民の会代表の村松幸彦さん▽大分市の英語学校長・パトリシア原さん▽主催者代表の野上会長に、牧野さんも加わり意見交換した。  パネリストは、トラスト活動について「今日が誕生日。市民一人ひとりの対話で輪を広げてほしい」「日常的に文化や建物について活動し、周りに認められる価値観にしていきたい」「行政は、勝手に造ったり壊したりする。行政にしっかりとノーを伝えること」などと意見を出した。終了後、パネリストと参加者らによる懇談会もあった。  トラスト活動は、地域の自然や歴史を物語る建物、町並みなどを守っていく活動。別府八湯トラストは、市内の温泉文化を伝える建物や町並みの保存活動を進める。野上会長は「街に残る先人の思いを形として伝えていきたい。お互いの信頼関係を築きながら、活動していきたい」と話した。

●見て!映画「機関庫物語」 2002.9.29 合同
 玖珠町ポスター完成、準備着々  玖珠郡有志でつくる豊後森機関庫保存委員会(河野博文会長)は、十一月に玖珠町内で上映予定の映画「機関庫物語 時代(とき)の移ろい」のポスターを作った。十月中旬から日田市郡、玖珠郡を中心に県内各所で張り出すほか、同様のチラシを新聞に折り込み、大々的にPRする。  映画は同委員会結成一周年の記念事業。「子どもと夢を! 機関庫保存でまちおこし」をキャッチフレーズに、JR久大線開設当時のにぎわいや繁栄した豊後森機関庫(玖珠町)の様子、SL廃止後から廃虚と化した建物の現況までの歩み―などを、それぞれ貴重な写真や八ミリ映像で構成。  テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」で声優を務めた俳優常田富士男さんの語りなども盛り込み、約三十分のショートムービーで「古き良きものを守る大切さ」を現代社会に問い掛ける。  ポスター(A2判)は四百枚、チラシ(A4判)は五万枚を印刷。十月中旬に発売を始めるチケット(入場協力費五百円)の取扱店のほか、十一月開催の関連イベント「玖珠鉄道資料パネル展」の要項なども記している。  映画の上映は十一月十六日午後三時から、くすまちメルサンホールで。河野会長は「編集作業は最終段階を迎えている。この映画が将来の地方文化を考えるきっかけになれば」と話している。  問い合わせは同委員会事務局長の浅田健治さん(TEL09737・2・1166)へ。 

●よみがえる古代海部 あすから現地説明と特別展   2002.9.20 合同
大分市教委は二十一日、古代官衙(かんが=役所)跡とみられる同市里の城原・里遺跡で、現地説明会を催す。併せて同日から、近くの国史跡「亀塚古墳」にある市海部(あまべ)古墳資料館で、特別展「古代海部の再現―ペーパークラフトによる律令時代の復元」を開く。  同遺跡は、七世紀中ごろから末にかけての大型建物群跡。大化の改新(六四五年)以降、各地に整備されたとされる官衙跡か、豪族の居宅跡とみられている。建物は同じ場所に三回にわたって建て替えられ、豪族の居宅から、当時、評衙(ひょうが)といわれた官衙へと移行した可能性もある。  同じ台地に海部郡衙(ぐんが)跡の中安遺跡(七世紀後半―八世紀)がある。三回、建て替えられ、評衙から郡衙への移行を示すものとされてきた。今回、見つかった城原・里遺跡が、一部で時期を重ねながら中安遺跡と連続性があるとみられることから、海部郡衙の前身との見方が強い。  当日は午前十時からと、午後一時からの二回、市教委による説明会がある。駐車場は国道197号の北側、横塚公園。説明会の会場までシャトルバスが出る。問い合わせ先は市教委文化財課(TEL097・534・6111内線2094)。  市海部古墳資料館で開かれる特別展「古代海部の再現」では、城原・里遺跡のほか、中安遺跡や下郡遺跡など、市内の律令時代の遺物が展示される。また、ペーパークラフトによる中安遺跡の復元模型なども紹介され、立体的に古代の海部地域を感じることができる。入館無料。十月二十日まで。

●日出町川崎の早水台遺跡 東北大学が発掘調査 2002.9.18 合同
  東北大学の学術調査団は十七日、日出町川崎の早水台(そうずだい)遺跡で発掘調査を始めた。二十六日まで十日間、調査する。  一九六四年に同遺跡の発掘調査をした芹沢長介・同大学名誉教授ら九人の調査団。当時の調査で石器が見つかった地層の火山灰を採取し、科学的な分析で年代を詳しく測定するのが目的。当時の調査の後にミカン畑になった場所や雑草地など複数の場所に区画を設定し、約三メートル掘り下げる。  芹沢名誉教授は「早水台から出土した石器の年代は、前期旧石器時代の終わりの時期だと考えている。ねつ造事件の影響もあって、古い石器がみんな怪しいという人もいるが、早水台は間違いないと思う。(早水台遺跡の発掘に携わった)故賀川光夫・別府大学名誉教授のためにも、遺跡の年代をはっきりさせて供養にしたい」と話した。  同遺跡は一九五〇年に発見された。縄文時代早期の遺跡だったが、その後、さらに下層から石英類製の石器類が見つかった。地質学的な研究から十万年以上前の前期旧石器時代の石器とされたが、「石器」の認定や地層の古さをめぐる論争がある。  同大学の調査団は、昨年二月と九月にも発掘調査をした。

●大分市「城原・里遺跡」 7世紀の役所跡か  2002.9.13 合同
 大分市教委は十二日、市内里の「城原・里遺跡」から、七世紀中ごろから末にかけての大型建物跡などが確認されたと発表した。官衙(かんが=古代の役所)か、豪族の居宅と推測され、官衙とすれば、同じ台地にある海部郡衙(あまべぐんが)跡の中安遺跡(七世紀後半―八世紀)の前身とみられる。市教委は今後、調査範囲を拡大して全容を確認する方針。  同遺跡は中安遺跡の西約四百メートルにある。市道改良事業に伴い、五月から約千六百平方メートルを対象に発掘。このうち、東部の約九百平方メートルで、七世紀中ごろから末にかけての掘っ立て柱建物跡と、弥生時代の竪穴住居跡が出土した。  建物跡は、直径七十センチ―一メートルの大きな柱穴が東西、南北に直線状に並び、建物が整然と配置されていたことをうかがわせる。同じ場所で二度の建て替えが行われ、建物は計九棟になることも確認された。最後に建てられた建物で最も大きなものは長さ一一・四メートル、幅五・四メートルだった。  同じ場所で大型施設の建て替えを繰り返し、柱穴が方形で、当時の中央の特徴を示している。  都を中心に使われ、内側に細い筋の模様がある畿内産土師器(はじき)の「わん」も出土したことなどから、市教委は「大化改新(六四五年)以降に造られた官衙遺跡か、豪族の居宅跡」とみている。「中安遺跡とともに郡衙の前身から成立、展開―の歴史をひもとく重要な遺跡」と話す。  官衙遺跡などに詳しい奈良文化財研究所・集落遺跡研究室の山中敏史室長は「この時期の同種の遺跡例は全国的に少なく、律令国家成立期の地方支配成立の様相を探る上で学術的に重要」と話している。  市教委は今後、地元に協力を求め、調査区域を拡大して発掘する。中安遺跡では郡衙跡の主要部分を道路建設のため破壊したが、今回の発掘場所は保存する方向で検討している。  二十一日の午前十時と午後一時から、一般公開する。

●現れた参勤交代道 玖珠町教育委員会が調査  2002.8.4 合同
 玖珠町教育委員会は町内平原で、旧藩時代に参勤交代で使われた道路の発掘調査をしている。同町森と九重町松木を結ぶ広域農道の建設に伴うもので、表土の下から道路に用いられた遺構の石畳が現れ、当時の面影がうかがえる。  参勤交代道は、同町平原の玄興院東側から影ノ木に抜け、日出生台から湯布院町塚原を経て、日出町豊岡まで通じていて、森藩主が江戸に向かう際のルートになっていた。  玄興院そばから影ノ木集落先までの約二キロは坂道のため、石畳が敷かれていたとみられている。このうち集落先に約八百メートルの長さで石畳が残っているが、町道に使われた場所などは石組みが散逸していた。  同教委は広域農道が参勤交代道だったルートを横切る形で建設されるため、七月から玄興院そばの工事予定区間二十六メートルで、発掘調査を進めた結果、この間で表土の五十センチ下から石畳を発掘した。   石畳は幅が二・三メートル。大小の石をうまく組み合わせている。両サイドは切りそろえた石を並べ、水はけを良くする加工を施した跡も見られる。石組みの構造や側溝の有無なども調べて記録している。  町教委は石組みを図面にして残し、石組みがしっかりしたものは近くに並べ替えて保存。参勤交代道があった位置を通る広域農道の舗装に、石組みの模様を入れるなどして、歴史遺産の”形”を残すことにしている。

●県内で初めて水晶製の三輪玉   2002.8.31 合同
日田市教委は三十日、同市朝日町の朝日天神山(天満)古墳群の調査結果を発表した。県内で初めて水晶製の三輪玉(みわだま)が出土し、取っ手付きの横瓶(よこべ)もあった。二号墳の墳長は六十三メートルで、六世紀前半の前方後円墳としては、県内最大級だったことも明らかにした。  同古墳群は二基の前方後円墳で構成。須恵器など出土品から二号墳が六世紀前半、一号墳が六世紀中ごろに造られたとみられる。  三輪玉は太刀の装飾具。横三・八センチ、幅三センチ、高さ二・五センチ。九州で水晶製の三輪玉が見つかったのは、福岡県沖ノ島の祭祀(さいし)遺跡だけ。  酒などの液体を入れて使った横瓶は二号墳の方と円の中間から見つかった。だ円のかめ型で、口の両脇に半円の取っ手がある。長軸約二十五センチ、短軸約二十センチ、高さ約二十二センチ。通常出土する横瓶は取っ手がなく、極めて珍しいという。  調査に参加した別府大学の下村智助教授は「古代の国家的な祭祀場とされるほかの遺跡で出土した三輪玉が出たことは大和政権との関係をうかがわせる。大和政権から九州を支配する拠点として、日田地域を任せられた有力な豪族の墳墓ではないか」と説明した。  同市教委は九月八日午前十時からと、午後一時からの二回、同古墳群を一般公開する。問い合わせ先は同市教委文化課(TEL0973・24・7171)。

●西南戦争の戦争遺跡 宇目などを文化庁調査 2002.8.22 合同
  幕末から太平洋戦争にかけての近代遺跡を調査している文化庁は、全国に残る軍事関係の遺跡も詳しく調べることを決め、このほど対象の五十カ所を選んだ。大分県内からは、熊本、宮崎両県とともに、西南戦争関係の戦争遺跡が対象となった。早ければ二〇〇三年度中にも報告書をまとめる予定。最終的には、地元からの申請で、国史跡指定を目指す。  西南戦争は一八七七(明治十)年、中央政府に不満を持つ士族に推されて、西郷隆盛が鹿児島で挙兵して始まった。熊本や大分などで戦いが繰り広げられ、大分では薩摩軍が宇目のほか、竹田や佐伯、臼杵、三重などで官軍とぶつかった。  このうち薩摩軍の拠点で、一進一退の激戦となった宇目町重岡地区の標高約五百メートルの山岳地帯には、いまだに塹壕(ざんごう)や鉄砲の弾丸など、当時の戦いを物語る跡が多く残っている。同戦争では熊本県の田原坂の戦跡が有名だが、それに劣らないほど。  当時の記録によると、重岡地区には同年五月十二日、薩摩軍の約四百人が入り、その後約四十日にわたって、同軍が豊後攻めの拠点にした。竹田や三重などに出撃しては官軍と激しい戦闘を繰り返し、重岡地区でも城ノ越や黒土峠、赤松峠などで両軍入り乱れてゲリラ戦を展開。塹壕のほか、木材や竹でさくとした「鹿柴(ろくさい)」を築いて戦ったという。県内には遺跡のほか、銃や剣、大砲の砲弾や小銃弾、警帽なども残っている。  文化庁記念物課によると、激戦地だった大分、熊本、宮崎三県については、これまで詳細に調査したことはなかった。西郷が自決した鹿児島市の城山は既に国史跡になっていることから、今回、大分など三県の西南戦争関係の遺跡を対象にしたという。  近代遺跡はこれまで、保存・保護されることが少なく、都市の再開発のほか、荒れるままの状態などで消滅する恐れが出ている。文化庁は一九九六年から、政治や経済関係などの十一分野で調査を進めている。

●大友府内町遺跡のパンフレットを作製   2002.8.18 合同
県教委文化課は、発掘調査中の中世大友府内町遺跡(大分市)を紹介するパンフレット「発掘された宗麟の城下町」(A4判・一八ページ)を作製した。最新の調査結果をまとめ、オールカラーで分かりやすく紹介している。  県教委は現在、国道10号拡幅やJR線高架化に伴い、大分市元町などで大がかりな発掘調査をしている。パンフに現地の航空写真を掲載し、十六世紀後半の大友宗麟時代の町並みをダブらせて紹介している。  キリシタンが埋葬されたとみられる墓や「聖ベロニカの御影」を描いたキリシタンの護符「メダイ」(メダル)、ロザリオの珠(たま=コンタ)、ケンディと呼ばれる東南アジアのユニークな陶器の破片、金ぱくを施した土師器(はじき)や鍵、鬼瓦、中国や韓国からの陶磁器などの出土品を掲載している。  千部を印刷。県教委文化課の文化財資料室(中判田)や遺跡を訪れた児童・生徒、行政関係者、一般の人たちに配布し、埋蔵文化財への理解を深めてもらう。問い合わせ先は同資料室(TEL097・597・5675)。

●日出藩の御茶屋「襟江亭」取り壊し  2002.8.18 合同
 日出町深江に残る日出藩の御茶屋「襟江亭(きんこうてい)」=小石和一さん(73)所有=が、老朽化のため、八月末をめどに取り壊されることになった。”別れ”を惜しむ町の郷土史愛好者などが見学に訪れている。  襟江亭は、一六六七年、日出藩三代藩主の木下俊長公が建設した木造平屋。深江港から参勤交代に出る際の待機所、狩猟の休憩所として使われた。当時は門前が海で、船が乗り付けていたという。  襟江とは深江港の別名で、緩やかに波打ちながら次第に狭まる形状の港が、衣服の襟に似ていることから名付けられた。  廃藩置県の折、帆足万里の門弟だった小石さんの曽祖父が買い取り、学習塾を開いた。その後、住宅として使用。六年前に住居を移してからは、瓦屋根が崩れ落ちるなど傷みがひどくなっていた。  一九九六年に熊本大学工学部建築学科の北野隆教授のグループが調査して詳細な図面を残しており、復元は可能という。  小石さんは「三百五十年の年月を経て限界が来たようです。ここに襟江亭があった名残に、門と塀は残しておくつもり」と話している。

●木棺墓保存へ切り取り作業  大友府内町遺跡  2002.8.10 合同
 中世大友府内町遺跡(大分市)を発掘調査している県教委は九日、キリシタンの墓とみられる一基の保存を目的に、遺構そのものを切り取る作業をした。  墓は長さ百八十センチ、幅五十五センチほどの木棺墓。板材を、すのこ状に組み合わせた底の部分など木棺の一部と、あおむけに埋葬された人骨が残っていた。  埋葬された人の身長は約一六〇センチ。時代は土層の層位などから、十六世紀後半。  切り取り作業は、墓の周辺の土を除去。周囲に木製の枠(一・三メートル×二・三メートル)を置き、県立歴史博物館の山田拓伸主幹研究員の指導で、墓の内外に発泡ウレタンを入れて補強。墓の下の土を除去した後、クレーンで持ち上げ、県立歴史博物館に運んだ。  今後、さらに保存処理作業をするとともに、エックス線を使って副葬品などが人骨の下にないかどうかなどを探る。

●豊後森機関庫をJR九州社長が視察   2002.8.7 合同
玖珠町に現存する「豊後森機関庫」の保存を求める声が高まっている中、JR九州(本社・福岡)の石原進社長が六日夕、同町を訪れ、JR豊後森駅構内に残る建物を視察した。地元からは小林公明町長をはじめ、同町出身で元町長の衛藤征士郎衆院議員も同行。所有者の同社に対し、「町のシンボルとして保存できるよう配慮を」と要望した。  町民有志が展開している機関庫保存運動を知った衛藤衆院議員が、石原社長に「ぜひ一度、玖珠町に足を運んで機関庫を見てほしい」と依頼。老朽化した建物の状況や同駅周辺の環境などを把握するため、石原社長も承諾、初めて来町した。  視察には川野敬雄JR九州大分支社長、JR九州経営企画部職員のほか、町関係者ら十四人が立ち会った。同駅構内で小林町長、安達宏彦町議会議長が「機関庫に対する町民の思いは強く、保存を求める署名は二万人以上集まった。JR九州の”英断”で保存が進むよう、町民の期待や希望に沿う配慮を」とあいさつ。  石原社長は「新聞報道などを通じて、地元の熱意は十分、理解している。列車で通るたびに、以前から(機関庫を)どうにかできないか―と思っていた」と答える一方で、「建物を修復して利・活用するとなると、経済的に難しい。今後は地元と協力しながら、方向性を模索したい」と語った。  この後、立ち入り禁止となっている建物内を見学。案内役を務めた小林町長は「町民の思いや現地の事情は察していただいたと思う。今後もJRに保存を働き掛けながら、町としても具体的な方策を協議していきたい」と話した。

●「聖嶽」訴訟 遺族側が結審求める   2002.7.31 合同
週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、昨年三月に自殺した別府大学名誉教授の賀川光夫さん(78)=当時=の遺族三人が、同誌を発行する文芸春秋社と編集長ら二人を相手に、謝罪広告掲載と五千五百万円の損害賠償を求めた訴訟の第四回口頭弁論が三十日、大分地裁(須田啓之裁判長)であった。  双方が準備書面を提出。遺族側は主張、立証を終えたとして結審を求めた。同社は記事の相当性を立証するために次回口頭弁論(十月八日)までに取材の経過を明らかにするとともに、取材記者らを証人申請する意向を示した。同地裁の判断によっては次回で結審する可能性もある。  準備書面で同社は「遺跡の状況は四つの不自然な事象があり、確率的には人為的な作為なしにはありえない」と主張。遺族側は判例を挙げ、「名誉回復措置として記事を掲載した回数と同じ謝罪広告掲載が認められるのは、判例に照らしても明らか」と述べた。  訴状によると、週刊文春は計四回にわたって、聖嶽関係の記事を掲載。見出しや記事で賀川さんが遺跡をねつ造したと報じた。  賀川光夫先生の名誉回復の裁判を支援する会(梅木秀徳会長)は、第四回口頭弁論を傍聴した後、大分地裁近くの県弁護士会館で支援集会を開いた。  今回も支援者約百人が出席。梅木会長が「相手方がじたばたしている感じがするが、予断は許せない」とあいさつ。原告を代表して長男の洋さんが謝辞を述べた。  弁護団を代表して岡村正淳弁護士が第四回口頭弁論の内容を説明。「準備書面で被告側は『ねつ造ととられてもそれなりの根拠がある』としていた主張を、今回、『ねつ造以外はない』と開き直っている。裁判所が終結を望んでいたのは間違いなく、次回はぜひ、終結を目指したい」と話した。

●宇佐市を丸ごと博物館に  2002.7.30 合同
 宇佐市の宇佐エコミュージアム協議会(会長・時枝正昭市長)は、これまでの取り組みをまとめた資料集「静かなる宇佐―路傍の美の発見・博物館」を作成した。宇佐の隠れた魅力を掘り起こして有機的に結び付け、全体を一つの”博物館”ととらえるユニークな地域づくりの構想を打ち出している。  従来の博物館が資料の収集と保管、展示を主にしているのに対して、エコミュージアム(生活・環境博物館)は、環境全体を現地で保存、展示することを原則にしている。  協議会は一九九六年に発足。シンポジウムや市民アンケートなどを実施してきた。資料集は、協議会内部の研究会メンバーである山内英生さん(50)=都市環境デザイン会議会員=、鹿瀬島元子さん(53)=豊の国宇佐市塾会員=、中島三夫さん(67)=市文化財調査員=の三人が中心になって編集。市内外の専門家が執筆した。  基本的な枠組みは(1)テリトリー(宇佐市全域)(2)原景(各地に散在し、現地に保存されている遺産)(3)散歩道(原景をつなぐ道)(4)廻廊(かいろう)・コリドール(空間、平面だけでなく、歴史など時間的な広がりも考えたテーマ。宇佐独自の考え方)。それぞれの事例の資料をまとめた。  原景は、宇佐海軍航空隊跡、長洲地区のこて絵、宇佐神宮の豊かな自然など六点を挙げた。散歩道は写真と地図で十のルートを紹介。廻廊では、水、緑、虫、学をテーマに、自然、地理、歴史などをまとめた。  市の緊急地域雇用創出事業を活用して、二〇〇〇年度から二年間で作成した。A4判で、百二十八ページ。三百部を印刷。宇佐市内の学校や図書館に配布した。事業費は約六百万円。  「歴史、文化、自然の多重性に富んだ宇佐はエコミュージアムがぴったり。『静かなる』の言葉に宇佐の根底に流れるものをしっかり認識する気持ちを込めた」と山内さん。市環境対策課は「市民が宇佐の魅力を再認識し、産業や観光などの各分野で活力を高めるきっかけになれば」と話している。  県内では、大野郡の大野広域連合が、昨年策定した大野地域市町村圏計画にエコミュージアム構想を取り入れている。

●大分市の予科練資料館で軍服などが盗まれる   2002.7.25 合同
大分市上野丘の予科練資料館で、展示していた戦時中の海軍士官服や帽子など六点が盗まれた。館長の川野喜一さん(76)は「遺族から頂いた大事な遺品。返して欲しい」と訴えている。  川野さんはかつて特攻隊員だった。戦死した友人らのめい福を祈るため、十四年前、個人で自宅に資料館を設けた。遺族らに呼び掛けて、遺品など二百点余を集めて展示している。多くの人に見てもらうため、無料で、自由に出入りできるよう開放していた。  盗まれたのは予科練生の遺族らから寄贈された紺色の士官服(上着)二着とコート一着、白いカバーの付いた士官用帽子一個、作業用の艦内帽二個の計六点。今月一日の夕方、点検中に無くなっているのに気付いたという。盗まれたのは六月下旬だったらしい。  川野さんは千葉県の木更津航空隊で、特攻隊の第七御盾隊の一人として終戦を迎えた。「友人らは終戦を告げる玉音放送直前の午前十一時にも出撃していった。わたしは翌日の十六日に出撃する予定で、一日違いで生き延びた。神に生かされたとの思いで、戦死した友人らのめい福を祈ってきた」と話す。  遺品の士官服が盗まれたことを川野さんは残念に思っている。「十四年間、無人で開放していても盗まれることは一度もなかった。出来心で手を出したのかもしれないが、遺品には戦死した予科練生一万八千九百人の魂が宿っている。今の平和な世の中は彼らのお陰なのだが」。  川野さんは資料館に施錠するようになったが、「声を掛けてもらえれば鍵を開けます」。  個人が設けた予科練資料館は全国的にも珍しい。これまで北海道など全国から、一万人を超える人が訪れたという。  インターネットのホームページでも資料館を紹介している。  問い合わせ先は資料館(TEL097・543・1430)。

●日田市の「片山磨崖種子」 保存方法を再度検討   2002.7.23 合同
日田市北友田にある市指定史跡の「片山磨崖種子(まがいしゅじ)」の種子(縦二・一メートル、横一・八メートル)が同市教委の調査で、大きさが国内有数だったことが分かった。道路拡幅工事に伴い、移転保存を決定していた同市は二十二日までに、保存方法を再度、検討することを決めた。  種子とは菩薩などの仏を梵字(ぼんじ)で表したもの。仏からすべての功徳が生まれるとして植物の種にたとえられている。片山磨崖種子は釈迦如来を意味する梵字「バク」。  同市教委は昨年度から、全国の都道府県教委に種子の有無や大きさなどを問い合わせた。これまでに三十五件の回答があり、和歌山県本宮町の「磨崖名号碑」(同県指定史跡)などとともに国内有数の大きさと判明した。  ただ、片山磨崖種子は市道「北豆田三郎線」の脇にある。同市道は都市計画の一環として幅を約五メートルから十二メートルに広げる工事が進められており、同市は移転保存の方針を固めていた。  このため、日田考古学同好会(原田勝宏会長)などが「移転では破損の可能性がある上、歴史的価値も低下する」として市に現状での保存を要望。同市にゆかりが深い京都仏教会の有馬頼底理事長も今年六月に現地を視察。保存を求める嘆願書を寄せていた。  市は「今後、関係部署で協議し、善後策を検討したい」としている。  【メモ】片山磨崖種子 制作は一三四四(康永三)年とされ、岩の壁面に掘られている。一九七五年、市の史跡に指定された。

●豊後森機関庫保存を玖珠町がJRに初の要請   2002.7.19 合同
玖珠町のJR久大線・豊後森駅構内に現存する「豊後森機関庫」を国登録有形文化財として残すため、地元の小林公明玖珠町長らが十八日、所有者のJR九州大分支社に建物の保存を要望した。同町で本格的な機関庫保存運動が始まった昨年十一月以来、JRに同町が正式に保存を要請したのは初めて。  小林町長や町職員、地元の「豊後森機関庫保存委員会」のメンバーを合わせて七人が大分市の同支社を訪問。JR側は川野敬雄取締役支社長ら職員六人が対応した。  小林町長は「豊かな自然と伝統文化に支えられている玖珠町にとって機関庫は貴重な歴史的財産。建物の整備、保存に尽力を」と述べて川野支社長に要請文を手渡した。  川野支社長は「機関庫の利用、活用は現在、考えていない」としながらも、「地元にとって大事な存在であることは承知している。具体的な有効利用策があれば、町づくりの一助として前向きに検討、協力したい」と答えた。  同行した同委員会の河野博文会長は「町民の意向をJRに伝えたことは大きな前進。今後、JRと町、地元住民が一体となり、保存に向けて取り組みたい」。  小林町長は「地元の気持ちは十分に理解してもらえたと認識している。JR九州本社の反応を待ってから、今後の方針を考えたい」と語った。

●宇佐に残された“聖域” ヒヌマイトトンボ生息  2002.7.13 合同
 環境省のレッドデータブックで「絶滅危ぐ[1]類」に指定されているヒヌマイトトンボの生息地が宇佐市にあることが十二日、分かった。国立環境研究所(茨城県つくば市)の主任研究員、宮下衛さん(54)らが明らかにしたもので、離島を除く九州本土では初の生息地発見。絶滅危ぐ[1]類は「絶滅の危機にひんしている種」とされ、研究員は生息地の保全を要望している。  ヒヌマイトトンボは一九七一年、茨城県茨城町涸沼(ひぬま)で発見された。体長約三センチで、雄は黒色の体に緑色の斑紋。雌は体の色が朱色、もしくは褐色と、雄と同じ体色・斑紋を持つ「同色型雌」の二種類がある。海水と淡水が混じる汽水域ヨシ原などに生息。国内では、宮城県から長崎県の対馬まで十六都府県で分布が確認されていた。  宇佐市の生息地は、周防灘に面する神子山新田と乙女新田の二カ所。中国地方以西では、対馬と山口県宇部市でしか見つかっていなかった「同色型雌」が生息していることも分かった。  ヒヌマイトトンボを最初に見つけたのは九八年五月。大阪市の環境関係のコンサルタント会社に勤める松田賢さん(36)と日浅雅也さん(31)が汽水域のヨシ原で、分布の可能性が高い神子山新田を調査。五十二匹を見つけた。翌年、宮下さんらを加えて調査範囲を宇佐市の沿岸一帯に拡大。乙女新田で計三十六匹、神子山新田でも延べ三百八十八匹を確認した。  宮下さんは同日、宇佐市役所で会見し、生息地発見を明らかにするとともに、宇佐市に乙女新田、神子山新田の生息環境の保全を要望した。ヒヌマイトトンボの生息には、ヨシ原が広がる汽水域で、干潮時でも湿気が保たれることなどが条件。宮下さんは「開発に取り残された場所として、生息地が残った。貴重なトンボを絶滅させないよう保護してほしい。豊かな自然のシンボルとも考え、環境学習などに生かしてほしい」と話した。  同市は「内容を聞いたばかりなので、対応を考えたい」としている。

●「豊後森機関庫」を映画に 11月16日に上映  2002.7.12 合同
 玖珠町にあり、九州では唯一現存する「豊後森機関庫」を後の世の人に伝えるため、豊後森機関庫保存委員会(河野博文会長・21人)がドキュメンタリー映画を制作している。昭和初期の貴重な写真や8ミリ映像を収め、テレビ番組「まんが日本昔ばなし」でおなじみの常田富士男さんらがナレーションを担当。機関庫落成日に合わせ、11月16日に発表を兼ねた上映会を計画している。  映画のタイトルは「機関庫物語 時代(とき)の移ろい」(約三十分)。建物保存の署名活動を展開した同委員会の有志が「機関庫の生きざまを通して、めまぐるしく変化する現代社会を考えたい」と立ち上がり、県内の旧国鉄OBらに資料提供を依頼。  JR久大線の豊後森―豊後中村間の開通(一九二九年)や、玖珠町民一丸となった機関庫の誘致活動、落成式などを伝える新聞記事のほか、機関庫のターンテーブル(転車台)で方向転換するSLの姿や、石炭を積み込む駅職員らの作業風景など、当時の活気が伝わる未公開写真・映像が集まった。  脚本と総指揮を務めるのは、同委員会メンバーの野村芳之さん(47)=日田市上野町泉。歴史的な資料を集約し、日田市内の映像業者と協力しながらテープを編集。久大線の生い立ちや機関庫の生涯、現在の保存活動などを三部構成でまとめ、「発展を支えた機関庫の存在意義をみんなで考え、力を合わせて後の世の人に伝えよう」と訴えるストーリーになっている。  六月初旬から本格的な制作に取り掛かり、「作業は現在、折り返し地点を過ぎたところ」と野村さん。今後は常田さんらのナレーションや、作曲中のオリジナルのBGMなどを入れ、秋までに仕上げることにしている。  完成した映画は、十一月十六日に玖珠町で開催予定の「豊後森機関庫シンポジウム」(仮称)でお披露目。ビデオ・DVD化して郡内の教育機関に配り、子どもたちに感想文を書いてもらうことも計画している。同委員会は「時代の流れとは何を意味するのか、この映画の完成を機に、県民に考えてもらいたい」と話している。

●進まぬ横尾地区の区画整理 遺跡調査で長期化必至  2002.7.11 合同
 大分市は市内横尾地区で進めている土地区画整理事業の見直しに着手した。地区内の横尾遺跡で国内第一級の「水場遺構」などが確認され、市教委は本年度から六年計画で本格的な調査に入る。これに伴い、既に遅れ気味の区画整理事業は、一層の長期化が避けられなくなった。市は一年程度かけ、住民と今後の事業の進め方などを協議して煮詰める方針。  横尾土地区画整理事業は一九九〇年度に始まった。面積は約八十二ヘクタール、移転対象戸数は百八十七、総事業費は約二百億円。期間は十五年で、二〇〇四年度完了を目指していた。しかし、遺跡調査などで進ちょく率は50%足らず(事業費ベース)と低く、移転も八十一戸(仮設住居を含む)にとどまっている。  昨年、市教委の調査で六千三百年以上前(縄文早期後半)の水場遺構が確認された。建築部材を伴う水場遺構としては国内最古。黒曜石(姫島産)の石材が入った「かご」とともに、専門家から高い評価を得ている。  市教委は文化庁の補助事業で、今夏にも学術的な調査に入る。対象は同遺構と周辺未調査地域の二十ヘクタール程度。文化財課は「横尾遺跡は”点”のデータしかない。六年間の調査で遺跡の性格、範囲を把握したい。データは、その後の横尾遺跡調査の方向性を決めるベースとなろう」と話す。  一方、市区画整理課はこれまでのペースで調査と並行して事業を続けた場合、完了までに通算三十年から四十年程度かかる―と予想。「あまりの長期化は住民への負担が大きく、事業意義も問われる」と同課。地元に文化財調査の概要と区画整理事業の見直しについて説明し、意見を求め始めた。住民からは「慣れない仮設住宅で生活を続ける住民に、長期化は負担が大きい」「できるだけ早く区画整理事業にめどをつけてほしい」との声が出ている。  市は「多くの住民は事業の長期化を望んでいない。どのような方法で住民の思いに応えることができるのか研究し、たたき台を提示したい」としている。

●大嘗祭訴訟 合憲判断を初めて確定   2002.7.9 合同
天皇即位の儀式「大嘗祭(だいじょうさい)」で使う新米を収穫する「斎田抜穂(さいでんぬきほ)の儀」に平松知事らが公費で出席したことが憲法の政教分離原則に反するかどうかが争われた住民訴訟の上告審で、最高裁第三小法廷は九日、全員一致で「政教分離には反しない」として住民側敗訴の判決を言い渡した。大嘗祭関連の儀式への出席を合憲とする判断が初めて確定した。十一日には鹿児島県知事の大嘗祭参列をめぐる訴訟の上告審判決が言い渡される。  判決理由で浜田邦夫裁判長は、大嘗祭と抜穂の儀は七世紀から行われている皇室の伝統行事だとした上で「抜穂の儀は神道形式にのっとって祭具を使用して行われたので、知事らの参列は宗教とかかわりあいのある行為だ」と儀式の宗教性を認めた。  しかし、これまでの政教分離訴訟の基準となっている目的効果基準を適用し「参列は開催地で重要な公職にある者の社会的儀礼として天皇の即位に祝意、敬意を表したもので、宗教とのかかわりあいの程度は限度を超えていない」と述べた。  一、二審判決によると、平松守彦知事と当時の副知事、農政部長の三人は一九九○年十月、玖珠町で行われた抜穂の儀に出席。旅費や日当として計約二万八千五百円が県から支払われた。  一審大分地裁は「宗教的な儀式だが、参列は社会的儀礼で違憲ではない」として請求を棄却、福岡高裁も「参列は天皇に敬意を示すためで神道への援助、助長にはならない」と述べ、これを支持した。  大嘗祭をめぐり公費の返還などを求めた訴訟は、東京、神奈川、大阪、鹿児島でも起こされたが、これまでの一、二審判決でいずれも請求が退けられている。  抜穂の儀訴訟の上告審で九日、最高裁が下した上告棄却の判決に、原告は怒りをあらわにした。  大分からは、原告代表の河野聡弁護士ら四人の原告が傍聴に訪れた。被告側の県職員二人の姿もあった。裁判長の言葉は「棄却する。上告費用は…」などわずか十数秒。四人の裁判官が退廷すると、最前列に座っていた原告の抜穂の儀違憲訴訟をすすめる会事務局長の島田雅美さんが「たったあれだけですか?最低裁判所だ」と大声で叫んだ。原告らは、裁判所前で、東京の支援者らと共に「憲法の番人は死んだ」などの垂れ幕を掲げて判決に抗議。河野弁護士から判決内容の説明を受けた。  河野弁護士は「事実認定も誤っているし、宗教性の強さ、儀式の国家神道との関係などの判断もなく、通りいっぺんの簡単な判断しかしていない。天皇の行う宗教儀式については最高裁に判断能力がないのを示した判決だ」と述べた。  さらに「お金は出さなくても参列という行為が社会に与える影響は大きい。知事らはよく考えて暴走することのないよう行動してほしい」と話した。  平松知事は「一審判決、控訴審判決同様、最高裁判所においても、当方の主張が認められた妥当な判決であると考えております」とのコメントを出した。

●学問的に「聖嶽」検討 県考古学会が研究発表会  2002.7.8 合同
 県考古学会は七日、別府市の別府大学記念館で例会を開き、本匠村にある聖嶽洞穴の研究をめぐる問題について、学問的立場から検討を加える研究発表会を開いた。会員の栗田勝弘さん(県教委文化課)が「聖嶽洞穴の真相」と題して発表した。  旧石器時代とされてきた同遺跡について、栗田さんは”ねつ造”を示唆した報告書「大分県聖嶽洞窟(どうくつ)の発掘調査」(二〇〇一年・春成秀爾編)に対する批判を展開した。  同報告書は一九九九年に実施された同洞穴第二次調査をまとめたもの。その中で、六二年に実施された第一次調査に対し、「旧石器は別の遺跡から持ち込まれた」「人骨も旧石器時代とはいえない」などと、遺跡が”ねつ造”された可能性を示唆した。  栗田さんは同報告書が示した疑問点に一つひとつ答えながら、「持ち込まれたとする根拠に事実誤認や思い込み、論理的飛躍が多い。遺物の管理上の問題はあったとしても、遺跡の疑問点に対し、”ねつ造”の一言で済ませるのはどうか。それでは新しい発見はなくなり、科学は終わりだ」と指摘した。  聖嶽をめぐっては、週刊文春が「ねつ造」疑惑を報道し、第一次調査の団長を務めた賀川光夫県考古学会長(別府大学名誉教授)が抗議の自殺をした。現在、遺族が謝罪広告などを求めて提訴中。第四回口頭弁論が三十日午前十一時半から、大分地裁で開かれる。  この日の例会は一般にも公開され、会員を含めて約五十人が参加。同学会の木村幾多郎幹事は「聖嶽洞穴については、週刊誌報道が先行して分かりにくくなっている。学問的にはどうみればいいのかを、一般の人たちにも分かってほしかった。これからも学問的立場で迫り、多くの人たちにこの問題について考えてもらいたい」と話している。

●清川村に浮世絵美術館 きょうプレオープン  2002.7.7 合同
「子どもに夢を与えたい」  清川村の浮世絵愛好者らが、美術館を建てている。趣味が高じて、村内宇田枝の旧畜舎を改造しているもので、展示スペースがほぼ完成。「子どもたちに夢を与えたい」と、七夕にちなんで七日にプレオープンさせる。  農業近藤修一さん(52)とアルバイト石井愛子さん(34)、それに天瀬町の店員川津美紀さん(32)の三人。福岡、熊本など他県の仲間も協力している。  代表の近藤さんはリサイクル活動の仲間から浮世絵の素晴らしさを教えられて以来、浮世絵のとりこになり、愛好者の石井さんらと知り合った。「浮世絵を教育に生かしたい」と各地で展示会をしてきた。  旧畜舎(約四百三十平方メートル)の改造は昨年春から。建築技術を生かし、一部に廃材を使用。浮世絵コレクションの一部を売却し、資金に充てている。展示スペースは約四分の一で、近藤さんらが所有する江戸時代後期の歌川派作品を中心に約六十点を展示する。  当面は週末のみ開館。夏休み中は高校生以下は無料とする。秋に正式オープンし、将来的には喫茶、模写教室を設ける構想も。  近藤さんは「浮世絵はゴッホら印象派画家に影響を与え、絵の具や和紙は自然に優しい。浮世絵を通じて子どもたちの感性を育てたい」と話している。  問い合わせは近藤さん(TEL0974・35・3877)。

豊後高田市の小崎地区 民泊、本格スタート  2002.7.7 合同
 豊後高田市小崎地区で六日、”民泊”が本格的にスタートした。田染荘の豊かな自然と伝統ある風景を活用したグリーンツーリズムとして、荘園の里推進委員会が市の補助を受けて取り組んでいる。昨年十二月、試験的に福岡県から十七人を受け入れているが、本格実施は本年度から。  この日訪れた第一号の宿泊者は、大分市内の主婦を中心につくる料理サークル一行で、会長の福留マス子さん(59)=同市賀来=ら四人。日程は一泊二日。  正午ごろ到着した一行は、地元住民の案内で小崎地区を散策し、宇佐神宮の荘園として発展した田染荘の歴史や地区に伝わる伝承などの説明を受け、興味深く聞き入った。また、福留さんらは地元の主婦を対象にした料理教室も開き、交流を深めた。  一行を受け入れたのは、河野アキヨさん方で、近くの住民が料理を持ち寄るなど、にぎやかな夕食となった。福留さんは「空気がきれい。水がおいしい。感激しました。秋にはサークルの他のメンバーを連れてまた来ます」と話し、他の参加者も「大分市内と温度も違う。自然のクーラーがあるみたい」「この自然を守っていってほしい」と話した。  田染荘の民泊についての問い合わせや申し込みは、荘園の里推進委員会事務局(TEL0978・26・2168)担当首藤さんまで。

●絶滅危ぐ種ベッコウトンボ 大分市東部にも生息  2002.7.5 合同
 開発は進むが、まだ貴重な自然が残っている―。大分生物談話会(佐藤真一会長)の調査で、大分市東部地域に環境省のレッドデータブックに絶滅危ぐ種として登録されているベッコウトンボなどが生息していることが分かった。同会は「想像以上の自然があった。自然観察など、県民の学習や憩いの場として生かしてほしい」と話している。  大分市東部地域は、これまで十分な調査が実施されていなかった。東九州自動車道や流通団地造成工事などの開発が進んでいることから、談話会が一九九九年から現状把握を目的に調査を開始。会員約四十人が地形・地質や地衣類、種子植物、昆虫類、鳥類など十四領域・班に分かれて現地を歩いた。  その結果、レッドデータブックに絶滅危ぐ種として登録される動植物が相次いで見つかった。動物では、「種の保存法」で希少種にも指定されているベッコウトンボが、臨海工業地帯の六号埋め立て地(現在、遊休地)に多数生息。このほか、ルイスハンミョウやオオイタサンショウウオなど。植物では、アキザキヤツシロランやハンゲショウなどが確認された。  明野団地を含む松岡丘陵では、国チョウのオオムラサキなど多くの昆虫がいて、里山環境の一端を見せている。しかし、スポーツ公園の建設など環境が大きく変わり、今後、次第に姿を消すことが心配されているという。  大在地区では開発が進む一方、点々と里山が残り、埋め立て地のすき間に辛うじて干潟が残され、多様な動植物がいた。都市部から離れた吉野地区には、山林や水田が里山の「原風景」としてよく残っている。ヌマガエルやニホンアカガエル、ニホンアマガエルが生息し、イモリ、オオイタサンショウウオなども。  佐藤会長は「自然度が高い九六位山系や吉野地区の里山などにも、住宅地や工業団地の造成など開発の波が懸念されている。今後の環境保全や、自然と親しむ際に調査報告を生かしてもらえればうれしい」と話している。  【メモ】調査・研究報告は、大分生物談話会の会誌第七号「大分市東部地域の自然」(A4判・一一一ページ)に収録。二十日午前九時半から、日本文理大学で報告会をする。一般参加を歓迎している。問い合わせ先は、事務局(吉田稔さんTEL097・534・8498)。

●大友府内町遺跡で木棺墓さらに12基出土  2002.7.4 合同
 中世のキリシタン墓とみられる木棺墓1基が見つかった大分市の中世大友府内町遺跡で、さらに墓12基が隣接して出土した。いずれも16世紀後半。都市部で墓がまとまっているのは、通常、宗教施設以外には考えられないという。当時の府内町絵図や埋葬方法などから、キリスト教会や病院に伴う墓地の可能性が高まっている。県教委は14日午前、現地説明会を開く。  新たに出土した墓も、ほぼ木棺墓。大人の墓が三基、子どものが九基とみられ、寄り添うように並んでいる。体を伸ばして埋葬された伸展葬が確実なのは子どもの墓二基。はっきりしないものが多いが、体を曲げた屈葬も五基ほどとみられている。  時代はいずれも国際都市・府内として名をはせた十六世紀後半。当時、墓は郊外に造られるか、寺院などの宗教施設に伴う墓地が一般的。現地は当時の絵図によると、教会(ダイウス堂)や病院推定地の南端付近に当たり、これらに伴う墓地の一角の可能性が高くなっている。  木棺や伸展葬は当時としては非常に珍しい埋葬形態。細長い木の棺に葬られたキリシタンではないかとみられている。一般的だった屈葬とみられる墓もあったが、仏教的な六道銭が入っていないことや、木棺に入っていることから、キリシタンの可能性もある。また、キリシタンでなくても、だれでも治療を受けられた病院だった可能性を考えると、墓地に伸展葬と屈葬が混在してもおかしくないという。  宣教師の記録によると、府内には一五五三年に教会が設立され、キリスト教式の埋葬が丁寧に行われていたことが知られている。一五五七年には日本初の西洋式病院が造られた。各地から患者が訪れ、敷地内に墓地も併設されたという。  県教委はロザリオなどの副葬品がないことから、伸展葬の墓がキリシタンとは断定できていない。しかし、墓が集中することから、墓地であることや場所、埋葬方法などから、教会や病院に伴う墓地だった見方を強めている。

大分市は郷土の緑保全地区に六カ所の緑地を指定  2002.6.28 合同
 大分市は「緑の保全と創造に関する条例」に基づく郷土の緑保全地区に、市内六カ所の緑地(樹林など延べ二一・四ヘクタール)を指定した。同条例は昨年四月に施行され、今回が初の指定。今後、市は積極的に緑地を守る保全協定締結を目指し、緑地所有者に理解と協力を呼び掛ける。  同条例は、行政、市民、事業者らが一体となって緑豊かな都市環境の形成を図るのが目的。市が二〇〇〇年に策定、公表した緑の基本計画を踏まえて制定した。厳しい罰則などを含む都市緑地保全法に比べて緩やかな内容。  郷土の緑保全地区は、環境や景観の保全、防災―などに重要とされた緑地。指定に際し、学識者らで構成する市緑の政策審議会の意見を聴いた。市公園緑地課は「貴重だが、住宅地などに近く、開発の波にのまれやすい緑地が多い。市民に目を向けてほしい」と話す。  指定に伴い、宅地造成、建物の新築や改築、樹木伐採(通常の営林行為は除く)の際は、事前に市長への届け出が必要になる。その一方で、緑地の土地相続者が経済的理由で売却などの必要が生じたときは、市に買い取りを申し出ることもできる(施行規則)。  保全協定は、郷土の緑保全地区内の土地所有者と市が(1)協定区域(2)行為の制限(3)違反措置(4)協定期間―などを定めて締結する。土地利用は制限されるが、都市計画税や固定資産税の相当額、維持管理費が助成対象になる。  市公園緑地課は「重要な緑地を将来に向けて積極的に保全するため、土地所有者に協定を説明し、理解を求めたい」と話している。  【郷土の緑保全地区】  ▽田尾地区(十三ヘクタール)▽千歳地区(一・九ヘクタール)▽桃園地区(○・七ヘクタール)▽宮崎北町地区(○・三五ヘクタール)▽東上地区(一・五ヘクタール)▽駄原地区(四ヘクタール)

●じり貧の「香りの森博物館」入場者2年連続で減少  2002.6.25  合同
 
大分香りの森博物館(野津原町荷尾杵)の二〇〇一年度の利用状況と決算がまとまった。入館者は昨年より15%少ない七万一千二百八十一人と二年連続で減少した。県外客が六割を占めているのが大きな特徴で、県内リピーターを引き付ける企画や魅力のPRが課題。小・中学生に香りの文化や効能を学んでもらうカリキュラムづくりにも力を入れる。  同博物館は九六年度に開館し、初年度の入館者は約十六万一千人。その後は減少傾向が続いている。全体の収支は約二億八千万円だが、昨年度、県の一般財源からの持ち出しは例年並みの約一億一千五百万円。  県から管理・運営を受託する財団法人・大分香りの森博物館によると、利用状況は県外入館者の割合が県内を大きく上回る。九八年度は県内が65%だったが、昨年度は41%まで落ちた。県外は近年、福岡の20%、熊本の10%をはじめ、全体的に増加の傾向。  「大分に訪れた際は必ず”香りの森”を訪れる」という女性客(東京)は「香りの工房で『調香』を楽しむこともできるすてきな施設。周辺の自然環境も素晴らしい」と魅力を説明した。  県内利用者が少ないことについて、同館や県森林保全課は「不景気の影響に加え、マンネリもある」と指摘。「ハーブをはじめとする香りの効能が注目される時代。館の魅力を再認識してもらうために、家族連れが楽しめる新たな企画が必要」と話す。  本年度は小・中学生が香りについて学べる”カリキュラム”を作成。若手職員を中心としたイベントプロジェクトチームを組み、観光や社会教育、生涯学習など多面的な施設の活用策を探る。  甲斐太治館長は「香りの文化を発信する西日本でも数少ない施設。観光ルートの開発といった旅行エージェント対策にも力を入れ、アクセスのマイナス面を克服したい」と話している。

豊後高田市・田染荘の御田植祭に300人  2002.6.10  合同
 豊後高田市の小崎地区で九日、第三回田染荘御田植祭(おんたうえさい)が催された。県内外から三百人を超える人が集まり、昔ながらの田植えを体験した。  午後一時から、宇佐神宮の神職による神事が営まれ、主催者を代表して河野精一郎荘園の里推進委員会長と、永松博文豊後高田市長が「オーナー料を負担してくれる荘園領主が、皆さんのおかげでことしは百二十人を超えました。最後まで楽しんでください」と歓迎あいさつ。  田植えに先立ち、張り子の牛が水田に入って行うアトラクションがあった。牛飼い役の人に反抗して座り込んだり、牛飼いを突き飛ばして泥まみれにしたりと、水田内で繰り広げられた寸劇に拍手と笑い声が起こった。  田植えは手植えで、合図に合わせて一列ずつ順番に植えていった。平安時代の田植え衣装を身に着けた参加者も多く、初体験の人の中には泥に足を取られてよろめく姿も。 

●聖嶽洞穴ねつ造疑惑報道 裁判所が結審の意向  2002.5.29 合同
 週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、昨年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫さん(78)=当時=の遺族三人が、同誌を発行する文芸春秋社と編集長ら二人を相手に、謝罪広告掲載と五千五百万円の損害賠償を求めた訴訟の第三回口頭弁論が二十八日、大分地裁(須田啓之裁判長)であった。  遺族、同社の双方が準備書面を陳述した後、須田裁判長は訴訟を結審する意向を示した。同社側が遺族側の主張に対する反論を求めたため、次回期日(七月三十日)が決まったが、遺族側は次回での結審を目指すとしている。訴訟は昨年十一月の提訴以来、早期決着の可能性も出てきた。  同社は準備書面で「記事は遺跡の問題点を報じたもので、賀川教授がねつ造したとは報じていない。仮にそのように理解されたとしても、その内容は真実か、真実と信じる相当の理由があった」と主張。  遺族側は「記事は一般読者に賀川教授が遺跡をねつ造したと読まれ、賀川教授を苦悩させた上で自殺に至らせたことは明らか。遺跡が教授のねつ造であるとの疑いをかけられる余地はない」と反論した。  裁判の後、賀川光夫先生の名誉回復の裁判を支援する会(梅木秀徳会長)は県弁護士会館で集会を開いた。原告弁護団の徳田靖之弁護士らは裁判所が早期終結の意向を示したことについて、「大きく展望が開けた」との見方を示した。  教え子ら、約百人が出席。梅木会長があいさつ。原告代表の二男真さんの謝辞の後、徳田弁護士らが「文春側は苦し紛れの言い訳をしている。裁判所は争点を正しく認識し、早く示そうとしたのではないか」と説明した。

●別府市美術館で県指定有形文化財が盗難   2002.5.28  合同
別府市上人ケ浜町の市美術館で、展示していた金銅製唐草文透彫鏡板(こんどうせいからくさもんすかしぼりかがみいた)一対=県指定有形文化財=が盗まれていたことが二十七日、分かった。別府署では、窃盗事件とみて調べている。  市教委によると、二十二日午前八時半ごろ、中野守館長が開館前の点検をしていた際、二階の考古・文化財コーナーで、木製陳列ケースの錠が留め金ごと抜け落ちたため、確認したところ、鏡板がなくなっていた。ほかの展示品に異常はなかった。  鏡板は馬具の一種で、縦六センチ、横十センチのだ円形。同市北石垣の実相寺遺跡の通称「太郎塚」から出土したと伝えられており、七世紀ごろの古墳の副葬品とみられる。  外部から侵入した形跡はなく、前日の二十一日正午ごろ清掃業者が作業した時や、同夜の警備会社による見回りの時は、異常に気が付かなかったという。鏡板を置いていた部屋に防犯カメラは設置されていなかった。  同美術館での盗難は初めて。山田俊秀・市教育長は「貴重な文化財を失ってしまい、市民、県民に大変申し訳ない。管理体制を強化して、再発防止に努める」と謝罪した。  同美術館は一九五〇年に開館。八四年に現在地に移転した。所蔵品は洋画、日本画、民俗資料など約二千四百点。

文化遺産保存して― 工芸家らが請願書  2002.5.18  合同
 「貴重な木造校舎を残して」―。国見町在住の芸術・工芸家らが、閉校になった岐部小学校(町内岐部)の校舎保存を求める請願書を、十七日までに町に提出した。同校の敷地には老人ホームの建設計画が浮上しており、このままいけば校舎の取り壊しが濃厚。「芸術発表や農村と都市の交流など町おこしの拠点に有効利用できないか。保存の意義を町民全体で考えてほしい」と声を上げている。  二〇〇〇年春で閉校した同校は町内唯一の木造校舎で、築百年を超す県内最古の棟もある。  請願者は、国見町や国東町などに住む表具作家、画家、木工芸家、写真家ら九人。「全国的に木造校舎が激減した中、昔の面影を残す学びやは後世に伝える文化遺産の価値が十分ある」と訴え、活用案として(1)絵画展や写真展、演奏会などの芸術発表(2)生活の知恵の伝承など高齢者と若い世代の交流(3)農村と都市の交流―の場にすることを示している。  一方、請願書を受け取った金山尚学町長は「建物の価値は理解できるが、保存は総合的にみて難しい」との反応。「地元の意向は老人ホーム。校舎は柱の根元が腐り危険な状態で、貸与も難しい。保存した場合の採算面も不透明」などと理由を話す。  老人ホーム計画は、早ければ本年度中にも本決まりの見込み。請願者代表の和田木乃実さん(ギャラリー涛音寮館長)は「このまま文化遺産を失うのは忍びない。残された時間は少ないが、イベントなどで町民が木造校舎の価値を見直す機会をつくれたら」と話している。

●安心院化石群の報告書が発刊  2002.5.16 合同
 安心院町で見つかった三、四百万年前のゾウなどの化石群の研究報告書が発刊された。発見者で、アマチュア研究家の北林栄一さん(玖珠町日出生中教諭)と滋賀県立琵琶湖博物館の研究者らが共同でまとめた。ワニ、スッポン、オオサンショウウオなどは「安心院動物化石群」と名付けられ、当時の生態系を再現する貴重な資料としてあらためて高く評価された。  化石群は一九九五年、北林さんが同町深見川の「津房川層」(前期鮮新世=四百万〜三百万年前)で見つけた。九九年までの五年間、町教委や琵琶湖博物館と共同で、計五回の調査を実施。一個体分のシンシュウゾウのほか、ニホンスッポンや東南アジアに生息するオオアタマガメを世界で初めて確認。植物を含む計約七十種千点を発掘した。  報告書は「琵琶湖博物館研究調査報告18号・安心院動物化石群」(A4判・一九三ページ)。北林さんと大分生物談話会の佐藤真一会長(サンショウウオ担当)、同博物館の高橋啓一専門学芸員ら全国の専門家十九人が、それぞれ地質・火山灰と年代、ゾウ、カメ、オオサンショウウオ、貝、昆虫、魚、植物などについて研究成果をまとめた。  高橋専門学芸員は「安心院の化石は、動物たちが気候変動とともに生息域の拡大、縮小を繰り返し、三百万年以上も生息してきたことを教えてくれた。当時の動物相を解明する貴重な資料だ」と評価。  北林さんも「安心院の化石を生かせないか。子どもたちが科学の面白さを学ぶためにも自然科学系の博物館などがぜひ欲しい」と話している。  化石群のうち、シンシュウゾウとサンバージカなどの一部は、大分農業文化公園に「化石倶楽部(くらぶ)あじむ」として展示されている。

★吉岡町の古墳激減 宅地開発進み70年で6分の1に/群馬県 考古学通信 5.14
古墳が集中的に見つかっていることで知られる吉岡町で、戦後の宅地開発などにより古墳の数が激減していることが、町教委の集計で分かった。昭和の古墳調査(1935年)では424基あったのが、1993年度調査では70基と、ほぼ6分の1に。その後も減少を続けており、町教委は「都市部のベッドタウン化による開発の余波」と話している。
●残したい「棚田」 県が棚田ガイドブックを製作  2002.5.4 合同
 農山村の美しい原風景である棚田を保全しようと、県はハンドブック「豊の国棚田ガイド」を作製した。昨年度の棚田写真コンテストの優秀作品紹介などを通じ、県民に資源としての有用性を知ってもらうのが目的。  県内の地形は起伏が激しく、急傾斜地においても棚田が築かれてきた歴史がある。県農村整備課によると、面積は約一万一千ヘクタールに上り、全国第四位。農水省が認定した「日本の棚田百選」には、別府市内成や緒方町軸丸北など六地区が選ばれている。  豊の国棚田ガイドは、洪水防止や水資源かん養の機能について説明。棚田百選の認定個所を写真と地図で紹介しているほか、昨年度の棚田写真コンテストの優秀作品十五点などを掲載。  ガイドはA5判一〇ページ。五千部を印刷し、県内市町村や写真コンテスト出品者らに配布している。県農業祭などのイベントを通じて一般向けにも配る予定で、棚田への理解を深めてもらう。作製は昨年に続いて二冊目。
●大友遺跡 「県都の顔」づくりへ 検討委が報告書 2002.4.26 合同
  国史跡「大友館跡」など中世・大友氏の遺跡活用を論議していた大分市の大友遺跡検討委員会(長谷目源太委員長、十三人)は二十五日、報告書をまとめ、木下敬之助市長に提出した。近年の発掘によって国際貿易都市だったことが明らかになっている同市。遺跡活用をまちづくりの重点項目に位置づけ、今後、具体化に向け取り組んでいく。  市長室で長谷目委員長が木下市長に報告書を手渡した。木下市長は「提言の趣旨に沿ったまちづくりに努力したい」と話した。同委員会は一九九九年に設置され、三年がかりで報告書をまとめた。  提言では「地域の歴史と文化を知り愛着と誇りをはぐくむ資産づくり」を目標に掲げた。官民協力による歴史遺産の継承を強調し、(1)歴史を活(い)かしたまちづくりの視点(2)整備エリアの設定(3)短・中・長期計画の設定と当面整備―の三つの活用指針と検討メニューを示している。  整備エリアには大友館跡のほか、御蔵場跡や万寿寺跡、上原(うえのはる)館跡、高崎城跡などの関連施設を掲げ、保存・復元や教育への活用を求めた。仮ガイダンス施設など、発掘調査と並行した情報発信の重要性も指摘。市は今後、新たなまちづくり検討委員会と遺跡整備・活用に向けた専門部会を設置し、具体化を図る。  長谷目委員長は「この数年の発掘で、宗麟時代の町の様子が分かり、歴史と文化の重みに県民の大友遺跡に対する理解も深まっている。県都・大分市を魅力あるまちにするためにも、大友遺跡を中心に据えたまちづくりに取り組んでほしい」と話している。  遺跡からは輸入陶磁器や金製品、キリスト教関係の遺物などが出土。十六世紀当時、いち早く西洋文化が花開いた町の様子が浮き彫りになっている。全国的にも市街地に残る中世都市として注目され、国も保存・整備に積極的だ。
●県教委が歴史と文化財の子ども用テキストなど作製  2002.4.22 合同
 県教委は宇佐八幡や六郷満山文化など、宇佐・国東地域の歴史と文化財を広く知ってもらうため、子ども用のテキスト・ビデオや一般用の地図などを作った。関係者に配布し、小中学校の総合学習や一般の生涯学習などに生かしてもらうことにしている。  作製したのは▽テキスト「宇佐・くにさきの歴史と文化財」(B5変判・二〇八ページ)▽副読本「宇佐・くにさき『神と仏の里』物語」(A4判・一四ページ)▽ビデオ「大和とさくらのふるさと歴史大発見!」(17分)▽「宇佐・国東半島文化財マップ(大)」▽「六郷満山の里宇佐・国東半島文化財マップ」。  テキスト(三千部)とビデオ(二百五十本)、副読本(一万六千部)は、それぞれ宇佐・国東地域の関係十三市町村の小中学校と県内の各市町村教委に配布。学校の歴史授業や総合学習で活用してもらう。マップ(宇佐国東半島(大)=一万部、六郷満山の里=一万五千部)は関係地域内の家庭や県内の各地方振興局などに配布し、生かしてもらう。  国の「ふれあい歴史のさと研究委嘱」による二〇〇一年度事業。国東地域の二カ所に文化財案内板を設置したほか、国東町内でボランティアガイド研修を実施した。総事業費は千七百万円。  県教委は「学校完全週五日制も始まり、親子やグループでの歴史学習などで活用してほしい。一般の人たちにも生涯学習に利用してもらえればうれしい」と話している。
●ふすまの中から古文書40点などを発見  2002.4.18 合同
 臼杵市末広にある善徳寺の佐々木正円住職(64)=市文化財調査委員長=は、三十年ほど前から古いふすまを解体し、下張りに使われた古文書を復元する作業を続けている。これまでに、古文書約四十点を発見。中には貴重な史料もある。  同寺を改築する際、ふすまの中から同寺の見取り図や教典の一部などが出てきたのがきっかけ。以来、市内の古い民家が改築するときなどにふすまをもらい受けたり、捨てられていたものを拾ったりして、これまでに約百二十枚の古いふすまを解体。ふすまを修復する時に下張りに使われた古文書約四十点を見つけた。  中には江戸時代の書家三井親和の篆書(てんしょ)や末広川を使って木材を輸送する方法が書かれたもの、武士の遺書、キリシタン弾圧に関するものなど貴重な史料もある。  佐々木住職は「上張りを一枚ずつはがしていく細かい作業だが、宝石を見つけるような輝きがある。やめられませんね」と話している。
●国東町の安国寺遺跡公園がオープン1周年  2002.4.18 合同
  国東町の弥生のムラ・安国寺集落遺跡公園と町歴史体験学習館が二十一日、オープンして丸一年を迎える。まが玉作りや米作りなどの体験学習を目玉に、二万人を超える子どもや大人が利用。県内でもユニークな体験学習の拠点として成長してきた。本年度、国東地域の伝統民俗を取り入れた催しも計画している。  「安国寺集落遺跡」は、弥生時代の高床式建物一棟分の木材が出土し、国史跡に指定されている。公園にはこの木材を参考に、当時の建物を忠実に復元。吉野ケ里遺跡(佐賀県)のように全国的に”想像物”が多い中で、”本物”として注目され、歴史や自然を学ぶ格好の場所となっている。  遺跡からの出土品も展示した体験学習館と公園は、昨年四月にオープン。学習館には三月末までに、二万一千六百六十六人が入館した。このうち約五千五百人が、まが玉や土器作り、火おこし、発掘などの体験学習をした。夏休みには竪穴住居に宿泊する「弥生人」体験もした。  同館では「これほど子どもたちの興味・関心を高めるとは思わなかった。ある小学校では、まが玉作りが流行した。大人たちも子どもが加工するために刃物を持つのを心配していたが、自分の方が面白くなるケースも多かった」と話している。  昨年、第一回の秋祭りも開催。神楽とオカリナ演奏、火おこしや弥生人コンテストなどをし、にぎわった。ことしは年間を通して、国東地域に伝わる子どもの成長を願う民俗行事(五節句)も取り入れる。五月五日には、もちを担いだり、踏んだりして二歳未満の子どもの幸せを願うという。  公園は周囲の田園風景とよくなじみ、五月のサツキ、六月のアヤメなどの花の時期もいい。つい最近、珍しいヤツガシラという旅鳥が訪れるなど、野鳥観察にも適している。  金田信子館長は「子どもたちには自分でモノを作るという体験で自信を、大人には”本物”を復元した弥生時代の建物や雰囲気を通して、日ごろの喧騒(けんそう)を離れた癒やしの空間にしてもらえればうれしい」と話した。
●”仏の里”は博物館 見直される中世の原風景  2002.4.16 合同
 ”仏の里”として知られている国東半島が近年、中世以来の農山村の原風景を残しているとして注目されている。「六郷満山」の仏教文化だけでなく、風景や祭りなどの行事の中に、人々の歴史と文化が刻まれている。県立歴史博物館も今年の秋、「千年の祈り」をテーマにした特別展を開き、国東の良さを見直す。  同博物館は宇佐風土記の丘歴史民俗資料館としてオープンした一九八一年以来、国東半島の荘園や六郷満山の寺院遺構を確認する調査をした。豊後高田市の田染や都甲のほか、香々地町で、水田開発が進んだ中世以来の村落の様子を探ってきた。特に田染の小崎地区では千年を超える中世の農村風景が続くことが分かり、「生きている遺跡」として整備事業が始まっている。  現在、安岐で続けている調査でも、地域で組織をつくって祭りを守る「頭屋(とうや)行事」が数多く残ることが確認された。県内では、大田村の同行事が知られ、国選択無形民俗文化財にもなっている貴重な伝統行事。  寺院遺構調査でも、国東の寺の原形が中世の岩屋や権現にあることが分かってきた。現在でも近世以降の伽藍(がらん)とともに、山奥にはかつての岩屋や権現の名残があり、中世以来の風景を残している。  岩戸寺など三カ所の寺に残る「鬼会(おにえ)行事」も、国東半島の各地にあったことが確認された。行事が受け継がれている三カ寺を含む二十二カ所に、今も鬼会面が残る。博物館は特別展で紹介する。  同博物館は現在、特別展の内容を詰めている。桜井成昭学芸員は「国東は中世以来の歴史・文化の風景を残し、半島の地域それぞれが”ムラは博物館”。国東を手掛かりに、未来のわたしたちの生き方を探り、全県、全国へと情報を発信したい」と話している。
●「玖珠町の機関庫を食べました」?!   2002.4.13 合同
「玖珠町の機関庫を食べました」  先日午後、支局に読者からショッキングな通報があった。電話の主いわく「甘さ控えめで、うまかった」らしい。「???」と首をひねりつつも、早速、聞き込み調査を開始した。  機関庫は、町民が文化財登録を熱望しているコンクリート製の鉄道遺産。しかし、この春から”食用機関庫”なるものが世に出回り、甘党の間でひそかな話題になっているという。「コーヒーや土産に最適」と、すでに心を奪われた町民もいるほどだ。  消息筋の話では、「食べられる機関庫」は一口サイズのカステラで、永楽菓子店(玖珠町塚脇)で入手可能。銘柄は「残そう! 玖珠町の機関庫」。洋菓子職人の永楽浩史さん(28)が「保存運動を盛り上げたい」と、新たに考案したオリジナル商品らしい。うわさでは一個九十円という。  客を装って店内に潜入。永楽さんに「商品を持って笑ってください」とリクエストした上で、証拠写真を押さえた。
●県立歴史博物館の入館者数が100万人を突破   2002.4.11 合同
宇佐市高森の県立歴史博物館は十日、開館以来の入館者数が百万人を突破。百万人目の入館者となった、福岡県福間町の吉田節子さん(77)に、岩井宏実館長が記念の感謝状、花束、修正鬼会面を贈った。  吉田さんは長女、義弟と三人で中津市で先祖の墓参りをした後、「県北の歴史をゆっくり知りたい」と思い、初めて同館を訪れた。「思いがけずびっくりした。先祖のお引き合わせかなと思いました。お面は代々の家宝にしたい」と、笑顔で感想を話した。  同館は一九八一年、宇佐風土記の丘歴史民俗資料館としてオープン。九八年に施設をリニューアルし、現在の名称になった。八コーナーでの常設展のほか、企画展を毎年開催。年間入館者数は、二〇〇〇年度が約七万二千人、○一年度が約六万四千人となっている。  岩井館長は「今までの入館者に感謝したい。昨年開館二十周年を迎えたのを機に、これまでの調査、研究、展示などに加え、地域や学校との連携強化など、大きく脱皮を図りたい」と話している。
●豊後森機関庫はこう生かす 12日から夢の作品展  4.10 合同
 玖珠町に現存する豊後森機関庫を後世に残すため、大分大学の学生たちが建物の利・活用法について考えた「機関庫作品展」(仮称)が12日から、玖珠町役場一階ロビーで開かれる。同大学が課題研究のテーマに機関庫を選んだのは初めて。地元関係者は「若い世代が描いた”夢”を鑑賞してほしい」とPRしている。  作品制作に取り組んだのは、同大学建設工学、福祉環境工学両科の選択科目「福祉建築コース」を受講する学生。機関庫の設計を課題テーマに選んだ希望者十二人が三グループに分かれ、昨年秋から現地調査を始めた。豊後森機関庫保存委員会(河野博文会長)のメンバーから建物の歴史などを”取材”し、機関庫を核とした町全体の将来ビジョンを模索。各グループごとに独自の研究結果をまとめた。  展示するのは、集いの場として人々が触れ合う機関庫の模型六点のほか、写真で構成した建物の紹介パネル、JR豊後森駅周辺開発の未来像などをまとめた資料など。「時間(とき)が流れ、景色が変わっても、変わらずに伝えていくのがある」などと、学生たちのメッセージが添えられている。  同大学工学部は「機関庫の研究は長年の希望だった。保存活動が盛り上がっている時に、地元で作品展を開催できるのは意義深い」。保存委員会のメンバーは「関心を持ってもらえることが何よりうれしい。四月下旬には交流会を開き、学生たちと意見交換をしたい」と話している。  作品展は二十六日まで。無料。問い合わせは豊後森機関庫保存委員会事務局(TEL09737・2・1166)へ。
●威風堂々 鹿角の剣 長湯横穴墓群から出土   2002.4.6 合同
県教委は、直入町の長湯横穴墓群(古墳時代後期)から出土した鹿角で飾られた刀や貝製品を報道機関に公開した。九州では類例を見ない貴重な遺物だという。  鉄剣と直刀は、鞘(さや)口や鞘尾などに、直弧文という独特の模様を彫った鹿角を飾り付けていた。特に、鉄剣は刀装具がほぼそろっており、九州では初めて。南海産の大型の巻き貝・ゴホウラ貝を加工した貝輪も見つかり、鹿角や貝を使った刀などが横穴墓からまとまって出土した例も九州で初めて。「長湯地域の首長系列の墓で、中央の大和政権との関係を考える上で貴重」と県教委。  長湯横穴墓群は、県道の改良工事をするために緊急に調査された。九基の横穴墓が確認され、このうち七号墓(六世紀前半〜中ごろ)から、これらの遺物が出土。人骨三体も見つかり、一体の鎖骨や頭部に刀傷があった。

★捏造が多く、信用できない 南部川村長考古学を批判/和歌山県 考古学通信 4.1
日本考古学協会は南部町と南部川村にまたがる徳蔵地区遺跡などについて、関係自治体に埋蔵文化財の保護体制充実などを求める要望書を出していたが、南部川村からは埋蔵文化財の保護に自信はなく、責務は負えないとした上で、古墳墓地の掘り返しは宗教上許されるべきでないとし、各地で捏造が多発していることから、学説は全く信用できるものでないなど、考古学を否定するような回答が寄せられていたことが同協会会報3月号で判明した。

新浜田温泉の落成式 7日まで無料開放   3.30 合同
別府市が市内亀川浜田町に建設した新しい浜田温泉が完成し、二十九日、現地で約七十人が出席して落成式があった。午後一時から無料開放され、地元の人たちなどが新しい浴槽につかった。  三十日は午前七時から午後九時まで無料開放される。四月一日にオープンし、別府八湯温泉まつりでほかの市営温泉と同様に七日まで無料開放する。  式典で、井上信幸市長が旧浜田温泉で長年、番台を務めた竹清ツヤ子さん、土田和子さんらに感謝状を贈り、「生まれ変わった浜田温泉の新しい歴史が始まる。別府八湯の一つ亀川温泉の中心施設として地元の人や観光客が利用してほしい」とあいさつ。  亀川浜田町の河野博司自治会長が「地元の念願だった新しい温泉が完成し、万感の思い。大切に使います」と謝辞を述べた。テープカットの後、施設の見学があり、地元の人たちは「新しいからきれい」「広さは同じくらいかな」などと話していた。  木造の旧浜田温泉は既に閉鎖されたが、市民から保存修復を求める声が出たため、市は歴史的建造物の保存に関する調査委員会を設け、建物の取り扱いを検討している。新浜田温泉は、旧浜田温泉の唐破風屋根などを再現。車いすで浴室に行けるなど、バリアフリーに配慮している。

●別府の文化遺産案内石碑 市内19の郵便局が寄贈   2002.3.28 合同
泉都・別府のウオーキングツアーの立ち寄り先になっている「別府港跡と天然砂湯跡」(元町、楠港埋め立て地)など二カ所に案内用の石碑が設置され、二十八日、披露された。市内十九の郵便局が別府八湯のまちづくりに協力し、計十二カ所に順次、寄贈する。  午前十時から別府港跡の石碑前で関係者三十人が出席して除幕。九州郵政局県本部の辻光善本部長が「今年はサッカーのワールドカップも開催されます。別府を世界にアピールしてほしい」とあいさつした。  御影石の碑は高さ一・四メートル。明治初期の一八七一年に開港し、後の別府の発展に大きな役割を果たした別府港と、港の南北にあった天然海浜砂湯の歴史を紹介するだけでなく、写真を基にした手彫りの図が入っている。「流川文学発祥の地」(楠町、寿温泉の西側)にも石碑が設置された。  残る十カ所の碑は場所を選定して四月に設置する。石碑は、別府八湯竹瓦倶楽部、市観光協会、別府八湯ウオークの各団体が協力して管理する。  案内石碑の設置を発案、企画した別府末広郵便局の河村建一局長は「忘れられかけた別府の文化遺産を石碑によってより多くの人に知ってもらい、大事に守っていきたい」と話した。

大分市美術館 企画展の業者選定でも資料残さず   2002.3.26 合同
大分市美術館(満生和昭館長)が絵画などの美術品を購入する際、経緯の不透明さが指摘されている問題で、企画・特別展についても、契約業者の選定をめぐる調査資料などの書類が残されていないことが二十五日、分かった。  同日の同市議会の文教常任委員会(日小田良二委員長)で表面化したもので、「一回当たり一千万円を超えるような企画展はすべて随意契約でありながら、意思決定がどうなされているのかが分からないのはおかしい」と委員が指摘。満生館長は「内部的に協議したものの、資料は残していない」と答えた。  市美術館によると、企画・特別展は毎年度、七、八回が企画され、約一億五千万円の市費が割り当てられる。このうち、企画業者からの提案を採用した巡回展が五、六回ある。しかし、企画・特別展を決定するまでの経緯を示す資料は全く残されていないという。  一方、文教常任委では、美術品購入問題も取り上げられ、購入の公正さ確保のため、一九九〇年に外部の専門家をメンバーとして設置された市美術館美術品収集委員会(年二回開催)の会議録も、九〇年分と九五年度分の全部と九四年度分の一回の記録がないことが判明した。委員の質問に、満生館長は「本当にないかどうか、あらためて調査したい」と述べた。

木造菩薩像など6件 新に文化財に指定  3.22 合同
 県教委文化課は二十日、新たな指定文化財を発表した。今回、指定したのは大分市の大山寺にある「木造聖観音菩薩座像」など六件。県文化保護審議会からの答申を受け、この日の教育委員会で承認された。  指定を受けた国東町の「重藤十王堂石造仏像群」は倶生神(くしょうじん)立像、阿弥陀如来立像、十王座像など十四体の石仏。明徳四(一三九三)年の銘があり、室町時代中期のもの。人の誕生から死後までの信仰が説話的に表現されている。  大山寺の仏像は十二世紀後半の平安時代後期に作られた「木造十一面観音菩薩立像」も指定。奥行きのある丸い顔面、穏やかな顔つき、豊かな肉体表現などが特徴。国見町の「千燈寺跡石像仁王像」(二体)は半肉彫りの珍しい作風で室町時代の作品。  中津市の「豊前福島神楽」は同市の「蠣瀬(かきぜ)神楽」と「植野神楽」とともに豊前系岩戸神楽の系統を江戸時代中期ごろから受け継いでいる。  三重町にある前方後円墳「竜ケ鼻(たつがはな)古墳」は古墳時代中期(五世紀後半)のもの。同町内の古墳は六つ目の指定で古墳時代の歴史を考える貴重な遺跡とされる。

●日田の穴観音古墳で新たに周溝を確認   2002.3.22 合同
日田市教委は、二月中旬から市内内河野にある国指定史跡「穴観音古墳」で古墳の範囲確認発掘調査を実施してきた。新たに古墳の周囲に掘られた溝(周溝)が見つかったことから二十四日、市民らを対象に現地説明会を開く。  同古墳は、六世紀末から七世紀初めごろの築造で、高さ二メートル、直径十メートルほどの円墳とされていた。幅二―二・三メートル、奥行き五・六メートル、高さ一・二―二・四メートルほどの石室内部には赤色や緑色の顔料を使って円文や同心円文、船、人などが描かれている。  今回の調査で、石室の周囲に深さ約二メートルのトレンチ(発掘溝)八本を入れたところ、石室を中心にした直径二十五メートルほどの周溝が確認された。幅○・八―一メートル、深さ○・六―○・七メートルほど。  市教委は「新たに周溝が確認され、古墳がこれまでいわれていたより、大きいことが分かった。高さは三―四メートルあったと思われる」と話している。  二十四日は午前十時半からと、午後一時半からの二回、現地説明会をする。当日は、装飾の退化の進行や石材の劣化で昨年から非公開となっている石室内部も見学できる。

●木造の浜田温泉 67年の歴史に幕  2002.3.20  合同
 別府市亀川浜田町にある木造の浜田温泉が十九日、営業を終え、六十七年の歴史に幕が下ろされた。市が設置した歴史的建造物保全調査委員会は今秋までに保存か、解体かを判断する。市道を挟んで向かい側には鉄筋コンクリート建ての新しい浜田温泉がほぼ完成。四月一日にオープンするが、木造とコンクリートの新旧浜田温泉が向かい合う。  最終日は長野県や東京など県外から訪れた人もいた。  二十四年間、番台に座って入浴客を迎えてきた竹清ツヤ子さん(68)と土田和子さん(64)は「いい温泉といわれるのが何よりだった。いい思い出になりました。ここでたくさんの人と出会えたことは忘れられません」と約四半世紀を振り返った。  木造の浜田温泉の保存修復を求めている市民グループ「浜田温泉館を温泉文化遺産として使って守る会」のメンバーは竹清さんと土田さんに「お疲れさまでした」と花束を贈呈。その上で、「費用がかかっても、大切な温泉建築として残すべき。建物が残るよう見守っていく」とコメントした。  これに対し、浜田町自治会の河野博司自治会長は「地元には、耐震性に問題のある危険な建物を残すのはどうか、という声がある。四月以降は市に管理をお任せします」と話した。  建物の老朽化に伴い、建て替えを進めてきた同市温泉課は「長年、お世話になった建物。管理運営をしてきた地元の人たちに心から感謝している」。  木造の浜田温泉の建物は一九三五(昭和十)年、別府市と亀川町が合併した記念に建設された。宝形造りの大屋根に千鳥破風、唐破風の屋根が重なるのが特徴。

◎よみがえる大友氏水軍 東大史料編纂所が調査  2002.3.15合同
 大分市の市街地で進む中世大友府内町遺跡の発掘調査で、宗麟時代の町の様子が次第に明らかになっている。古文書も大友氏関係が再評価され、北部九州六カ国を支配した十六世紀後半の活躍ぶりが生き生きと浮かび上がってきている。このほど東大史料編纂所も「貴重な史料」として、大友氏の水軍の一つ、「若林水軍」の古文書を調査した。  「若林水軍」は一尺屋(佐賀関町)を根拠地に、豊後水道から瀬戸内海へと活躍した。  大友氏の水軍として、毛利氏や島津氏の水軍と戦うなど数々の戦功を挙げている。義統とともに豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、水軍として参加している。  同古文書を所有しているのは、料理店経営合沢康就さん(54)=大分市=。合沢家は若林家とともに一尺屋出身で、近世、若林家の一人が一族の合沢家に養子に入ったことから、以後、古文書は代々、合沢家に伝わってきたという。  古文書は大友義長、義鑑、義鎮(宗麟)、義統の四代にわたる十六世紀を中心としたもの。急な兵船の要請に対して、すぐ対応したことを感謝する義鑑から若林水軍への書状など約四十点が残っている。  調査に訪れた東大史料編纂所の榎原雅治教授ら三人が、一点一点を丁寧に広げて内容を確認、写真撮影をした。榎原教授は「大分は全国的にみても中世の古文書が多い。若林水軍に関する書状も当時の様子を生々しく伝え、大友氏や水軍を研究するうえで貴重な史料」と話している。  合沢さんは「古文書を通して、大友氏の水軍について多くの人たちに知ってもらいたい。最近、遺跡発掘でも注目され、古文書も一緒に生かされればうれしい」と話している。  

◎杵築市の「城下町散策とひいなめぐり」は大成功   合同2002.3.14
杵築市の「城下町散策とひいなめぐり」(二月二十日〜三月十日)が市内外から多くの観光客でにぎわった。市中心部で初めて開かれたもので、会場の市有施設は入場者が昨年同時期より大幅に増加。関係者は「商店街への経済効果も大きかった。成功だった」と喜んでいる。  市商工会が主催。同会女性部(加藤美枝子部長)と市民有志が中心になって運営した。会場は大原邸や商店、ギャラリーなど十一カ所。市内の旧家に受け継がれた人形や愛好家のコレクション、手作りの人形などを展示した。  市教委社会教育課によると、会場になった市有施設の期間中の入場者は▽きつき城下町資料館 二千百九十八人(昨年同期五百九十二人)▽一松邸 二千七百四人(百九十九人)▽佐野家 二千六百一人(百七十人)▽大原邸 三千八百七人(二千二百三十九人)―など。日ごろ入場者が少ない一松邸、佐野家は十倍以上。  「杵築藩主ゆかりの古今びなを『里帰り展示』した資料館と、佐野家は特に好評だった。二月は観光客が少ない時期なので、イベントの効果は大きい」と同課。  女性部が抹茶の接待をした仲町の須磨屋は、約二千人以上が訪れたという。加藤部長は「二、三回訪れた女性客がかなりいた。商店街は飲食店、菓子店に買い物客が多かった。わずか二週間で準備したが、成果があった」と話している。  市商工観光課は「日田市、中津市など先発のひな祭りがあるのでどうかと思ったが、予想以上の観光客で商店街が活気づいた。民間主導のイベントなのが良かったのでは」。会場の商店からは「『久しぶりに商店街に足を運んだ』という市内の人もいた」との声も。  来年以降の開催は、実行組織づくりが課題。加藤部長は「一部の人だけでは限界がある。中心部だけでなく、市民を挙げて参加できるイベントにしたい。会場マップや案内看板なども工夫が必要」と話している。 佐野家には期間中、普段の10倍である2600人が訪問

○別府市の新しい市営浜田温泉が4月1日オープン  2002.3.14合同
別府市が市内亀川浜田町に建設している新しい市営浜田温泉がほぼ完成し、四月一日にオープンする。給湯設備工事などのため、木造の浜田温泉は十九日まで入浴できる。二十日から閉鎖する。  新しい浜田温泉の落成式を二十九日に行い、同日と三十日は無料開放。三十一日は休業。別府八湯の春のイベント「温泉まつり」に合わせ、一日から七日まで無料開放する。  新しい浜田温泉は鉄筋コンクリート平屋建て(約百五十平方メートル)。外観は唐破風(からはふ)屋根にするなど、現在の浜田温泉を模した。スロープや手すりを設け、お年寄りや体が不自由な人が利用しやすいようバリアフリーに配慮した施設にした。建設費は約六千万円。  新旧の浜田温泉が道路を挟んで向かい合っているが、市民グループが木造の浜田温泉の修復、保存を求めて運動している。同市は今月一日、「歴史的建造物の保全に関する調査委員会」を設置し、建物の保存が可能かどうかなどを調査する。
◎木造館保存で懇親会  2002.3.14合同
別府市亀川浜田町にある木造の浜田温泉の修復、保存を求めている市民グループ「浜田温泉館を温泉文化遺産として使って守る会」(高橋鴿子代表)は十三日夜、同市青山町の聴潮閣で懇談会を開いた。運動を存続し、市が設置した「歴史的建造物の保全に関する調査委員会」に保存を働き掛けるほか、シンポジウムの開催を話し合った。  市民や市議ら十数人が参加。高橋代表ら守る会のメンバーは「委員会ができたのは画期的。保存されることを期待するが、費用がかかることを理由にして取り壊される不安もある。これからも温泉として使って保存するよう訴えていく」と話した。

◎朝来の自然残そう  安岐町で地域づくりシンポ   2002.3.13合同
安岐町朝来地区の自然環境と地域づくりを考える「ホタル飛び交うあさぎりの郷(さと)シンポジウム」が十日、同地区の「あさぎりの郷」で開かれた。  朝来地区活性化推進協議会(財前成俊会長)の主催。同協議会は昨年、住民に地域活性化についてのアンケート調査を実施。地区内で多く見られるホタルと河川の環境保護に関心が高かったため、同協議会の環境部会がシンポジウムを開いた。  住民約百人が参加。ホタルの生態を解説するビデオを上映。その後、朝来小学校の糸永敏明教諭が同地区の自然について説明。地区内の朝来野川にすむ魚や、同校の児童が総合的な学習の時間で川について学んでいることを紹介した。  糸永教諭は「子どもは魚を捕ったり五感で川を体験することで、川や環境の大切さを考えるようになるはず。朝来には素晴らしい自然が残っている」と話した。  続いて、地区内の主婦の手嶋郁美さん、ホタルの飼育に取り組む大田村の安藤博昭さん(「比栄会」会長)らが意見交換。「朝来のきれいな川を守るために家庭排水の浄化が必要。食用廃油のせっけん作りをしてみたい」「子どもたちを川に戻したい。町内全部の川が遊べる場所であってほしい」などの声が出た。

◎豊後高田市小崎地区で田園空間整備事業が本格化   2002.3.11合同
中世のムラ風景を残す豊後高田市の小崎地区で、国補助事業の「田園空間整備事業」がいよいよ本格化する。新年度には景観に配慮した水路と農道の生産基盤整備がさらに進み、中核施設の総合案内所の実施設計などに入る。地域で、都市と農村の交流も回を重ね、「荘園の里」づくりも軌道に乗り始めている。  事業は本年度から始まり、小崎地区の用排水路と農道の整備に取り組んでいる(事業費約一億五百万円)。水路は景観に配慮した石組みで、農道もできるだけ緑を生かした工法を検討している。  同地区は中世、宇佐神宮の荘園「田染荘(たしぶのしょう)」だった所。整備事業は、農村の持つ豊かな自然や伝統文化などを生かし、過疎・高齢化に悩む地域の活性化につなげるのが目的。対象地区には、どぶろく祭りで知られる白鬚(しらひげ)神社のある大田村も含まれている。〇五年度までの計画で、県と地元が田園空間博物館「八幡(はちまん)荘園の郷」として取り組んでいる。  新年度はさらに用排水路(延長四キロ)と農道(延長一・五キロ)の整備を推進。地域情報の提供と交流拠点にもなるコミュニティーセンター、国重要文化財の真木大堂から小崎地区までを散策する遊歩道の実施設計もする。イノシシ被害が深刻化していることから、防護さくも設置。大田村の中畑地区では棚田保全もしていく。総事業費は四億二千万円を予定している。  地元では、これまでに田んぼのオーナー制度で都市との交流を始めているほか、このほど地域内にウメとモモの苗木を植えた。花が見ごろとなるのは四、五年先だが、花と香りの「桃源郷」づくりも目指す。官民共同の地域づくりが進んでいる。  田園空間整備事業の本格化で雨引神社前でも用水路整備へ

★奥三面博物館の設立申し入れ/新潟県 考古学情報 2002.3.7
新潟県考古学会、
文化財保存県協議会など4団体は4日、岩船朝日村の奥三 面遺跡群から出土した大量な遺物の保管・公開の場として、県立の博物館を 同村に設立するよう、県教育委員会に申し入れた。同遺跡群では旧石器、縄 文時代を中心に19遺跡が確認され、近現代までの集落の変遷をたどることが できる貴重な遺跡だが、昨年10月に完成した県営の奥三面ダム湖底に水没し、 出土した縄文時代の土偶など約9000箱分におよぶ考古資料は、現在、同村の 廃校に一時的に保管されている。

大分市内6ヵ所の雑木林を「保安ゾーン」に指定   合同2002.1.31
企業誘致や人口増加に伴う開発で緑地が減少している大分市は、本年度中に市内六カ所の雑木林を「緑地保全ゾーン」に指定する。昨年三月末に制定した「市緑の保全及び創造に関する条例」に基づく初の指定。今後、地域の実情に合わせて保全ゾーンを拡大していく。規制は緩やかだが、土地所有者に協力の意思表示をしてもらうことで効果を高めたい考え。  指定するのは(13)大分市田尾(日本文理大学東側、十三ヘクタール)(14)千歳(桃園小学校南側、一・八ヘクタール)(15)大分市駄原(県立図書館西側、四・八ヘクタール)など、六カ所で計二十二ヘクタール。比較的市街地に近く、環境、防災、景観といった観点から、存在価値の大きい緑地帯を地域バランスを考慮して配置した。  市が植物の重要群落として位置付けながら、一時は団地開発の危機にさらされた葛木(鶴崎工業高南側)の広葉樹林一・四ヘクタールも指定。既に、全ゾーンの土地所有者への説明を終え、学識者や行政、市民の代表でつくる市緑の政策審議会を経て決定する。  条例に基づく保全ゾーンは、建物の新築や宅地の造成など、比較的規模の大きな開発行為をする場合にのみ、届け出が必要。法に基づく厳しい規制はできないが、基準に適合しない場合、緑の政策審議会が検討の上、市が必要な措置を勧告する。従わない場合、原状回復を命令できるという。  さらに、土地所有者との保全協定の締結を促進し、保全協力への意思表示をしてもらう。締結すると、固定資産税などの助成が受けられる。  【市緑の基本計画】市民、行政、企業が一体となった緑地保全策を展開するため〇〇年度に策定。二〇年度を目標に、緑地面積を二万五千二百ヘクタール(現在二万四千九百ヘクタール)に維持・拡大することをうたっている。

宇佐市の県立歴史博物館に路線バス乗り入れ  合同2002.1.23
 宇佐市高森の県立歴史博物館(岩井宏実館長)への路線バスの乗り入れが二十二日、スタートした。同館は、バス停が設置された玄関前で記念セレモニーを開催。この日の第一便の運転手に、同館職員が花束を贈った。  これまでは、同館最寄りのバス停は「かんぽの郷宇佐」で、同館から一キロ近く離れていた。路線バスの乗り入れは、一九八一年に宇佐風土記の丘歴史民俗資料館として開館以来の念願だった。同館は、路線バスの乗り入れで集客力のアップに期待を寄せている。  大分交通グループの高田観光バスが、宇佐市四日市と豊後高田を結ぶ路線のうち、かんぽの郷宇佐を経由していた四便を路線延長し、同館に乗り入れる。到着(発車)時間は、豊後高田行きが午前九時十分と同十時二十分、四日市行きが午後二時三十四分と同四時三十四分となっている。  同社は「公的機関に乗り入れるということは、こちら側にもメリットがある。利用の増加につなげていきたい」と話している。

◎浜田温泉保存で4度目の署名提出   合同2002.1.10
別府市の市民グループ「浜田温泉館を温泉文化遺産として使って守る会」(高橋鴿子代表)は十日、同市亀川浜田町の浜田温泉を木造のまま修復して活用するよう求め、井上信幸市長あての署名千二百五十六人分を同市に提出した。昨年中に提出した三回分を合わせ一万二千八百四十七人となった。  同市は十二月定例議会で、浜田温泉を含めて市内の歴史的建造物の保全などを検討する調査委員会を設置する方針を表明。高橋代表らは署名簿提出に際し、「守る会からも市民の代表として委員会に入れてもらいたい。市民に見える形でオープンに保存について論議してほしい」などと求めた。  応対した林慎一市長公室長と池部光観光経済部長は「委員会はできるだけ早く設置するよう委員の人選を含めて協議している。皆さんの意見は要望として承ります」と答えた。

◎臼杵市の野上弥生子「東京・成城の家」で火事   合同新聞2002.1.9
八日午前十一時二十五分ごろ、臼杵市祇園東、フンドーキン醤油副会長小手川道郎さん<76>方(木造二階約百五十平方m)の屋根裏から出火。二階の天井の一部(約二十五平方m)が燃えた。  小手川さん方は、臼杵市出身の作家野上弥生子さん(故人)が一九四八年から八五年まで、東京・成城で住んでいた家を八九年に同所に移築復元したもの。九七年に国登録文化財になった。  臼杵署の調べでは、出火当時、小手川さんと妻ひささん<76>、来客二人がいたが、逃げ出して無事。二階には野上さんが執筆活動をしていた書斎があるが、壁に水が染みた程度で済んだ。  同署は、強風のため、暖炉の火が煙突から二階の屋根裏に燃え移ったのではないかとみている。

◎大友遺跡 発掘調査  相次ぐ発見に新展開期待  合同新聞2002.1.5
大分市の中世大友府内町遺跡の発掘調査が、国道10号の拡幅改良工事に伴い急ピッチで進んでいる。これまでに、商家が並んでいたとされる町屋跡から多くの輸入陶磁器、寺跡からは金ぱくが残る鬼瓦(おにがわら)も出土するなど、当時の様子を物語る遺物が相次いで見つかっている。今年も新たな展開が期待できそうだ。  大友氏関連の遺跡は、大分市教委が調査している大友館跡(同市顕徳町)が昨年、国史跡に指定された。推定約二万平方mのうち、地権者の了解が得られた所から買収を進め、順次、遺構の確認調査を継続している。  館跡周辺の府内町遺跡では、国道10号拡幅やJR大分駅の高架化を見越し、県教委が発掘を進めている。主に館跡東側の桜町や御内町、堀ノ口町、称名寺(いずれも当時)などを調査。町の様子が次第に明らかになっている。これまでに豪商が住んだとされる桜町跡からは、建物跡や多くの輸入陶磁器が出土したほか、称名寺跡からは目玉部分に金ぱくが残る鬼瓦も見つかっている。  縦横に走る道路と辻(つじ)に設置されていた木戸跡なども出土し、町並みの様子が浮かんできている。既にキリスト教の護符メダイ(メダル)やロザリオの珠(たま)なども見つかっており、宣教師フランシスコ・ザビエルが伝えたキリスト教文化も今後さらに明確になりそうだ。  一方、府内の国際貿易都市ぶりが明らかになるにつれて、貿易港だった当時の「沖の浜」港の存在が再び注目されている。「瓜生島」伝説で知られる大地震で沈んだとされ、今では見ることができない。過去の調査では、大分港(住吉泊地)沖に砂州で陸続きとなった島状のものだったと推定されている。  南蛮貿易研究で知られる加藤知弘・大分大学名誉教授は「残念ながら海没してしまったが、あらためて府内の発展に寄与した貿易港の意味を検証する時期に来ている」と話している。

・長湯横穴墓群(12月24日)−大分県−  考古学情報 2001.12.28
直入町にある古墳時代後期(6〜7世紀)の長湯横穴墓群では、新たに8基の 横穴墓と合計18体分の人骨や副葬品が出土した。

◎大分市の大友府内町遺跡から馬形の水注が出土   合同新聞 2001.12.21
県教委が調査している大分市の中世大友府内町遺跡(十六世紀後半)から、馬の形をした華南(中国南部)三彩の水注が出土した。全国的にも珍しく、来年の「うま年」を前にした“馬の出現”に、「幸先がいい。来年は明るい年になってくれるといいが…」と担当者。  水注は硯(すずり)につぐ水の入れ物(水滴)。当時の桜町、名ケ小路町付近で、豪商らが住んだとされる町屋の土こう(穴)から出土した。これまで県内外の中世遺跡で鳥や魚の形をしたものは見つかっているが、馬は専門家も「聞いたことがない」という。  馬形水注は現存部分で約五cm。たてがみや轡(くつわ)の部分などが表現され、威風堂々とした見事な馬。大友遺跡からは数多くの輸入陶磁器が出土しており、あらためて当時の国際都市ぶりをほうふつとさせている。

中津城の内堀から金ぱくのかわら出土   合同新聞 12.11
中津市教委が発掘調査を進めている中津城の内堀から、金ぱくを施したかわら片が出土した。城郭関連遺跡からの出土は県内で初めてで、九州でも九例目。内堀の石垣は、畿内で発達した工法が用いられており、天正期(一五七三〜九二年)の石垣としては九州最古と確認された。  中津城の本丸(現・中津城公園地)南側にはかつて、長さ約二百m(最大幅約十m)の内堀があった。現在は埋められているが、石垣は百三十mほど残っていて、当時の面影を伝えている。市が、まちづくり総合支援事業で内堀復元に着手したのに伴い、市教委が十一月から調査している。  金ぱくのかわら片は、現存する石垣の中央部近くの内堀跡から出土した。長さ十三cm、幅と厚さはそれぞれ約六cm。割れた面以外に、鮮やかな金ぱくが残っている。  同市教委は「金ぱくのかわら片は鬼がわらの縁の部分とみられる。やぐらに使用されていたかわらの可能性が高い」と話している。金ぱくを施したかわらは、大友関連遺跡(大分市)の井戸跡からも出土している。  一方、石垣は地下約三・八mのところから築かれていて、全体の高さは約七mあった。「布目崩し積み」の工法など、畿内地方で発達した技術的特徴が確認された。天正期の石垣としては九州最古で、これだけ現存しているのは全国的にも珍しい―と、高い評価を得た。  中津城は豊臣秀吉の九州征伐で入国した黒田孝高が、一五八八(天正十六)年から造営を始めた。市教委は「これまでの調査で、石垣が黒田時代のものと判明し、築城の歴史を探るうえで大きな成果があった」としている。


別府市の「内成に棚田を守る会」が発足    合同新聞2001.12.11
農水省の「棚田百選」に認定された別府市の内成地区で九日、住民が中心になって「内成の棚田とむらづくりを考える会」を設立した。発会式が同地区自治公民館であり、呼び掛け人の一人である平野辰生区長を会長に選んだ。  発会式には地域の人たちなど約五十人が出席。福岡県立大学の平岡豊講師が基調講演を行い、棚田の歴史や有用性を解説。棚田を保存する意義を話した。活動内容は今後、話し合って決めることにした。  地元の人たちは、棚田を守り、地域振興を図る会の発足を機に、古くから受け継がれてきた棚田を一層大切にし、後世に伝える役割を果たそうとしている。  棚田を守るために、一般の人を対象に「棚田オーナー」を募り、農地としての棚田を維持し、景観の保全に努めることを検討している。オーナーを地域に招いて交流するイベントを行い、活性化に役立てる。  中山間地にある同地区では三十戸の農家が約四十二ヘクタールの棚田を耕作。傾斜地に階段状に造られた棚田が国土保全や生態系の維持に役立っているとして一九九九(平成十一)年に棚田百選に選ばれた。  発会式があった九日、同公民館で地元の芸能文化祭が開かれた。芸能の発表や農林産物の即売会、バザーなどがにぎわった。

日田市、「石橋保存を!」《求(もとめ)町の石橋を守る会》 大文協会報No,22 12.9記入

  2000年度より始まった圃場整備とそれに伴う市道「来来里(くくり)・中央線」の拡幅により、日田市大字来来里字里(求町)に架かる石造アーチ橋の「名里(なざと)橋」を取り壊し、新しい橋を架けるという話が持ちあがりました。これに対して、地元からは、この周辺にある石橋群と共に「名里橋」を保存しようという声がおこり、「求町の石橋を守る会」が結成され、昨年来活動を続けています。昨年には64戸の全世帯のうち49戸、175人の署名を集めて日田市長に提出しています。幾度かの要請にもかかわらず。本年1月現在で「保存はできない」という見解です。地元では道路拡幅には「すでに広い道路があり不必要ではないか」といった声もあるそうです。「守る会」では、全住民への説明会の開催を働きかけていくとともに、「名里橋」から「出店橋」に至る旧街道の風景を残した形での圃場整備を進めるように要望していくとのことです。なお大文協の団体会員であります、「日田考古学同好会」がこの運動に協力をして活動しています。(「守る会」の橋本さんからの投稿をさらに要約したものです。)

◎どう守る?歴史的建造物 別府市が調査委設置へ  合同 12.8
 別府市は七日、浜田温泉や竹瓦温泉など、市内の歴史的建造物の保存、保全の在り方を協議する調査委員会を設置する考えを示した。市議会の一般質問で、安倍一郎助役が明らかにした。
 調査委員会は、浜田温泉の修復保存を求める市民運動が起こっていることを受け、文化財に指定、登録されていない歴史的建造物の取り扱いについて調査、検討する。基本的な方針や保存すべき建造物の選定基準、保存のために必要な措置などを協議し、市に提言する。市はその提言を尊重する。
 設置の時期は「できるだけ早く」としており、委員は十数人で構成する。文化財や建築物の専門家を中心に、市民代表を加えることも検討している。浜田温泉の取り扱いを最初に検討する。
 井上信幸市長は「市全体の歴史的建造物について幅広い意見を聴く必要があり、前向きに解決策を模索してもらいたい」と述べた。

西寒多神社の神庫保存修理が完了 合同 12.5 合同Pより

  白アリの浸食で倒壊の危険性が指摘されていた、西寒多神社(大分市寒田)神庫の保存修理工事がこのほど完了した。七日に工事の終了報告祭がある。
 校倉(あぜくら)造りの神庫は築百十五年。市指定有形文化財で、神庫としては県内唯一の古代建築様式。普段は宝物の保存庫に使われており、貴重な大友宗麟の印章や古文書、みこし、刀剣などを納めている。
 工事は九月から開始。市文化財課の指導の下、専門業者の手で丁寧に作業が進んだ。基礎柱や床、階段などの木材をサクラ、ヒノキに取り替え、白アリとカビの防除をした。
 地区住民は、二〇〇八年に迎える神社の御遷座六百年記念祭に向けて準備を進めている。有松克忠総代会長は「自分の住む地区に、素晴らしい建築物があって誇りに思う。大事にしていきたい」と話している。

◎木造校舎を消さないで 県内各地で応援活動 合同 12.3
  木造校舎を消さないで、と市民グループ「木造校舎応援団」(豊田修身代表・十八人)が“応援活動”を進めている。
 過疎や少子化による小・中学校の統廃合や、建物の老朽化で次々に取り壊されている木造校舎。建築家らの応援団は「効果的な手直しを加え、活用することで、さらに長持ちする。閉校になっても、地域に溶け込んだ校舎を大切にしてほしい」と呼び掛けている。
 各地で地域のシンボルとなってきた小・中学校の校舎。老朽化に伴う維持管理の難しさもあり、取り壊すケースが目立っている。そんな現状に昨年六月、県内の建築家、県職員、大学教授、主婦らが応援団を結成、活動を始めた。
 きっかけは、一九九八年三月に閉校となった日田市小山小学校の旧校舎。同市は「三年間で教育的活用がなければ」と、取り壊しを決めていたが、木造校舎にほれ込む仲間たちが知恵を出し合い、夏休みに自然学校「おやま森林小学校」を開校。手弁当で子どもたちを受け入れた。その後、映画上映やコンサートも開かれている。
 現在は、庄内町の東庄内小学校の旧校舎を応援している。同町は校舎の取り壊しと町営住宅の建設を決めているが、地元は木造の講堂を集会所として活用したいと希望。応援団は校舎とのお別れ会の開催を呼び掛けた。メンバーが自前の映写機で名作映画「二十四の瞳」を上映。パソコンで校舎の生い立ちを映写し、夜なべ談議で講堂の活用法を語り合った。
 応援団では、役割を終えた木造校舎があれば、(1)可能な限り再生(2)取り壊しならば部材の活用(3)お別れ会の開催|の順番で、地元や市町村に働き掛けている。今後、三重町白山中、三重南小、大野町北部小、本匠東、西の両中に残った木造校舎を応援するという。
 豊田代表は「例えば木造の講堂は、昔の映画を上映するには最適な空間。木造校舎には木が持つぬくもりがあり、地域の思い出も詰まっている。さまざまな魅力を提案していきたい」と話している。

 

★宇佐市で安土桃山時代の櫓跡見つかる 合同 11.23合同HPより
  宇佐市教委は二十二日、同市高森の高森城跡で昨年七月から今年十月にかけて行った発掘調査の結果を発表。安土桃山時代の櫓(やぐら)とみられる、南北十四m、東西五mの建物跡が見つかったことが分かった。
 同市教委によると、安土桃山時代と限定できる城施設の遺構は例が少ないという。当時の城施設はほとんどが江戸時代に改修されているためで、「城郭の発展の歴史を考える上で、非常に重要な資料」としている。
 今回見つかったのは、一m間隔で並ぶ礎石と無数のかわらの破片。礎石の大きさや規模、配列などから、二階建て以上の建物と推定している。(1)規模が大きい(2)南北に礎石が等間隔で並び、通路らしき部分がない―ことなどが、門ではなく櫓ではないかとする要因になっている。「周辺勢力に外観を誇示するような建物だったのでは」としている。
 高森城は一五八八(天正十五)年、黒田孝高(如水)が豊前六郡を与えられたことを受け、弟の利高が築城。豊臣秀吉が九州支配を進める上で、前線基地となった。その後、一六〇〇年に支配者が黒田氏から細川氏に代わると使われなくなり、一六一五年の一国一城令により壊された。
 城跡の調査は一九八三年から始まり、本丸と推定される部分の建物跡などが出土している。旧石器時代から近代に至る複合遺跡としても知られている。今回の調査地点は本丸の東側で、堀や土塁の跡を間にはさんでいる。
 同市教委は二十三日午前十時から午後四時まで、現地説明会を開く。雨天の場合は中止。

◎高森城跡(11月23日)−大分県−考古学情報11.26
 宇佐市にある高森城跡(同市高森)の発掘調査を進めている同市教委は、安土桃山時代
の櫓跡とみられる建物跡が発見されたことを明らかにした。同城は1588(天正15)年、豊
臣秀吉から豊前6郡を与えられた黒田如水の弟・利高が築城し、その後、1600年に領主が
黒田氏から細川氏に代わると使用されなくなり、1615年の一国一城令により破壊されたと
される。見つかった建物跡は南北14m、東西5mあり、1m間隔で並ぶ礎石と無数の瓦の破
片が出土したという。礎石の大きさや規模、配列などから、2階建て以上の建物跡とみら
れ、通路部分がないことから門ではなく櫓ではないかと推定されている。今回の調査地点
は本丸の東側で、堀や土塁の跡を間にはさんでおり、周辺勢力に外観を誇示するような建
物だったのではないかとみられ、安土桃山時代の城郭を研究する上で貴重な史料と注目さ
れている。

★「国東町弥生のムラ」あすから初の秋祭り 合同 11.23
  第一回くにさき弥生のムラ秋祭り」(大分合同新聞後援)が二十四、二十五の両日、国東町の弥生のムラ・安国寺集落遺跡公園で開かれ、弥生時代をテーマにした多彩なイベントが催される。
 二十四日は、午後五時から前夜祭の宵祭り。来園者全員で、園内に立てた三千個の竹ぼんぼりに点火。幻想的な明かりの下、土舞台でオカリナ奏者の日嘉まり子さん、雅楽の笙(しょう)奏者の藤井絵里さんがコンサート。国東神楽のメンバーが夜神楽を舞う。 二十五日は、午前十時から豊穣(ほうじょう)祭。火おこし競争、弥生人に仮装する「なりきりコンテスト」のほか、町内の原地区に伝わる千本ぎねのもちつき、豊崎地区の横手菊永音頭を披露。オカリナや笙のコンサート、国東太鼓の上演がある。 園内は各種バザーの出店が並び、土器や勾玉(まがたま)作り、火おこしなどの体験コーナーも設置。体験はドングリ(百〜五百g)を持参するか、有料で挑戦できる。
 弥生のムラは「秋の一日を弥生の世界で楽しみませんか」とPRしている。
 問い合わせは、弥生のムラ・安国寺集落遺跡公園(TEL0978・72・2677)へ。


★発掘や県史編さん手伝って 愛知県が1万人の雇用創出 考古学情報11.26
長引く不況による失業対策として、愛知県は県史編さん作業の手伝いや遺跡発掘補助など、
約1万人分の雇用を生み出す特別基金をつくる方針を決めた。12月3日開会の12月議会に補
正予算案を上程する。国からの交付金約141億円を投入し、緊急地域雇用創出特別事業基
金を設立。県が直接実施する事業や民間委託、市町村を通じての民間委託などの形で短期
の就業機会を生み出す。具体的には、森林作業員、美化作業員、観光地での案内係、県史
編さん作業や歴史資料の整理手伝い、遺跡発掘補助などの仕事を準備する。

★臼杵石仏、国宝になってから150万人を突破 合同11.20
  臼杵市深田の国宝臼杵石仏が国宝になってからの拝観者が二十日午前、百五十万人を突破した。百五十万人目は愛知県小牧市の松尾寧さん<78>多美子さん<73>夫婦で、「夫婦で年二回ぐらい旅行するが、素晴らしい記念になります」と笑顔で話した。 大日如来前で記念式典があり、石仏観光事務所の佐藤ゆかりさんが花束と記念品を手渡した。前後の百四十九万九千九百九十九人目の星乃英一郎さん<61>幸子さん<56>夫婦=福岡県=、百五十万一人目の小林治仁さん<30>=東京都=にも記念品を贈った。
 臼杵石仏は大正時代初めに存在が知られるようになったが、だれが、いつ、何のために造ったかなどははっきりしておらず、なぞが多い。これまでの研究では十一世紀後半の平安時代後期から十三世紀の鎌倉時代にかけて彫られたとみられている。ホキ石仏第一群、同第二群、山王山石仏、古園石仏の四群六十余体があり、このうち五十九体が、日本を代表する磨崖仏(まがいぶつ)として一九九五年に国重要文化財から国宝に昇格した。
 文化庁と市が五八年から六二年に地下排水などの土木工事を中心とした第一期工事、七九年から九三年に仏体そのものの復元や石仏を覆う覆屋の設置を中心とした第二期工事を、計約四十年がかりで実施した。
 特に古園の大日如来仏頭の復元は、「美術品として当時の姿に戻すべき。地面に置いたままより保存にいい」「見慣れたイメージが変わる。首のままがシンボルだし、復元して落ちたら大変」など市を二分する論争が続いた。市が市内全域で八十回以上の説明討論会を開いた結果、貴重な歴史的財産という認識が市民の間に根付き、復元が実現した。

★平城宮跡守るNPOを設立 考古学情報11.19
奈良市の特別史跡・平城宮跡の保存に市民も協力しようと奈良文化財研究所の解説ボラ
ンティアらがNPO(非営利組織)法人「平城宮跡サポートネットワーク」を設立し、
17日、奈良市の奈文研平城宮跡資料館講堂で記念講演会を開いた。 平城宮跡の歴史など
を観光客らに解説しているボランティアらが発案。昨年から設立準備を進め、10月に県
からNPO法人の認可を受けた。今後は「環境保全」「広報企画」「文化・教育」の3部
会を設け、月1回の会議を開く。一般会員も募集しており、問い合わせは奈良文化財研究
所内の平城宮跡サポートネットワーク(電話:0742-34-3931)まで。

★大友氏館跡 国史跡に区域追加  合同 11.17
 国の文化審議会が十六日開かれ、県内からは国史跡「大友氏館跡」(大分市顕徳町)の指定区域追加が決まった。これで、同館跡は推定二百m四方(約四万平方m)中の三分の一ほどが指定されることになる。
 同館跡は戦国時代に、北部九州一帯に覇を唱えた大名「大友氏」が守護所を置いた場所。宗麟時代には宣教師フランシスコ・ザビエルも訪れ、宗麟に西洋のことなどを語ったとされる。これまでに、大規模な庭園跡や土塁跡などが出土し、今年八月十三日付で館跡推定地の約四分の一に当たる約九千九百平方mが国史跡に指定されていた。
 今回、新たに追加指定されるのは、地権者の同意が得られた館跡推定地内の六カ所計約二千百二十平方m。このうち二カ所で実施された遺跡確認調査では、館北側の溝と築地塀跡とみられる遺構などが見つかっている。この結果、国史跡指定地は約一万二千平方mとなり、館跡の推定面積約四万平方mの三分の一ほどになった。
 正式指定からわずか三カ月で、追加指定が決まった。市教委の帯刀修一文化財課長は「地権者らみなさんの理解と協力があったからこそ、文化庁も理解を示してくれている。今後もみなさんの理解をいただけるよう確認調査などで情報公開をしていきたい」と話している。
 本年度は館跡推定地内の四カ所で遺構の確認調査をする予定。

★地上の石垣確認後 堀復元 中津城発掘調査始まる/大分県 考古学情報 11.9
中津市教委が、中津城の石垣の発掘調査に乗り出した。いったん地上の石垣を取り崩して
現在地中に埋もれている石垣を確認、そのうえで堀全体の復元を計画している。同市が進
める「中津城公園整備事業」の一環で、同調査はその基礎的資料となる。


10、11日佐伯市で平和の遺跡めぐりバスツアー 合同 11.8
  佐伯市は市制六十周年記念事業の一環として十、十一の両日、「平和の遺跡めぐりバスツアー」を開催する。市内に現存する太平洋戦争時代の遺跡や平和祈念館「やわらぎ」を見学してもらい、戦争と平和について、見詰め直してもらう。
 バスツアーは両日開催される「第二十五回佐伯市ふるさとまつり」の関連行事。同市が戦争遺跡を見学するツアーを企画したのは初めて。所要時間は一時間半程度で、無料。両日とも午前十一時、午後一時、同三時の計三回、祭り会場の佐伯文化会館前を出発する。小雨決行。
 ツアーでは、平和祈念館「やわらぎ」、国の登録有形文化財に指定された旧佐伯海軍航空隊の掩体壕(えんたいごう)などを見学する。平和祈念館「やわらぎ」は佐伯海軍航空隊兵舎跡に建設された資料館で、基地の町として知られた当時の佐伯と戦争の関係を知ることができる。掩体壕は戦闘機を爆撃から守るコンクリート製の施設。壕内には当時の戦闘機のプロペラなども展示。
 ツアーのガイド役として、同航空隊にいた赤松勇二さん(市内向島)らが同行し、詳しく説明する。赤松さんは「戦争遺跡について知らない市民も多い。多くの人に参加してもらい、戦争遺跡について学んでもらいたい」と話している。
 問い合わせは佐伯市役所市民の窓係(TEL0972・22・3111)。


★宗麟の古文書発見 清川村の佐保さん方 合同 11.3
 戦国時代の豊後国の武将大友宗麟の古文書が、清川村大白谷の農林業佐保誠二さん<70>方で見つかった。県地方史研究会参与の芦刈政治さん(三重町)、県先哲史料館の平井義人主幹研究員、三重野誠主任研究員が鑑定した。家臣団に対し戦への協力を感謝し、忠義を尽くすよう勧めた内容で、芦刈さんらは「保存状態もよく貴重な史料」と話している。
 芦刈さんらによると、文書は同村の宇田枝武士団に与えた。「雁皮紙(がんぴし)」という木の皮をすいて作った紙が使われている。年代は一五六八(永禄十一)年四月と推定。宗麟は重臣に命じ、毛利元就に近い武将と小石原(福岡県)で戦をしており、佐保さんの先祖が武士団のリーダーだったため、佐保さん方に伝わったとみられる。
 (1)花押や文書形式が当時のものと適合(2)あて名に「衆中」という大友氏独特の表現がある(3)切封(きりふう)、墨引(すみひき)が残っている―などから、宗麟の文書と断定した。
 これと同時に、宗麟の父義鑒(よしあき=後の義鑑)のものではないかとみられる文書も見つかった。字体などから一五三二(天文元)年十一月と推定され、戦で手柄をたてた佐保主馬允(しゅめのじょう)にあてている。花押になぞったような跡があり、写しである可能性が高いが、「いずれにしても中世のもので貴重」という。
 佐保家では二つの文書をきり箱に入れ、代々大切に保管していたという。村の文化財調査委員をしていた兄佐藤庄一さん<74>が芦刈さんに鑑定を依頼した。
 佐保さんは「昔の字で読めなかったが、代々大事にしてきてよかった」。芦刈さんらは「戦後の県史編さん作業で、大友時代の文書はほとんど出尽くしていた。残っていたことに驚いている」と話している。


◎賀川教授の遺族が「謝罪」求め文芸春秋社を提訴 合同11.2
  週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、今年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫さん<78>=当時=の遺族三人は一日、「連載記事は故人が遺跡をねつ造したと断定し、全業績、人生を否定した」として、同誌を発行する文芸春秋社と編集長ら二人を相手に同誌への謝罪広告掲載と五千五百万円の損害賠償を求める訴訟を大分地裁に起こした。
 訴状によると、週刊文春は今年一月から三月までの三回と、賀川さんの死後の一回の計四回にわたって、聖嶽関係の記事を掲載。最初の一月二十五日号で、「『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」という見出しで、同遺跡をねつ造と指摘。二月一日号と三月十五日号でも同様の記事を掲載し、関係者の証言などから賀川さんが遺跡をねつ造した「神の手」の犯人と断定した。
 賀川さんは、三回目の記事が出た直後の三月九日夜、日出町内の自宅で自殺。同誌はさらに三月二十二日号でも、聖嶽の記事を掲載した。
 提訴後、会見した賀川さんの長男洋さん<45>、二男真さん<39>は「本来は話し合いで解決したかったが、文春側の対応は誠意がなかった。学者の人権を踏みにじり、死に至らせた是非を問い詰めたい。慰謝料よりも謝罪広告の方が大事と考えている。父の名誉を回復したい」と話した。
 弁護団(代表・徳田靖之弁護士・三十人)の岡村正淳副代表は「記事は賀川さんが犯人とは書いていないが、見出し、記事を通じて神の手は賀川さんと導く陰湿、巧妙な構成。全人生を否定された苦痛は大きく、死亡後も遺族の気持ちを逆なでする記事を掲載した」と問題点を指摘した。
 木俣正剛編集長は「個人を名指しして、責任を追及したり、ひぼうするような表現もしていません。故賀川氏のごめい福を心よりお祈りしますが、主張すべきことはしていく覚悟です」とコメントを出した。

★賀川名誉教授 遺族、文春を賠償提訴 考古学情報 11.5
大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡にねつ造の疑いがあると報じた「週刊文春」
と出版元の文芸春秋(東京)を相手取り、報道に抗議して自殺した賀川光夫・別府大名誉
教授の遺族らが1日午後、謝罪広告の掲載と約5千5百万円の損害賠償を求める訴訟を大分
地裁に起こした。

★歴史資料 「お役所仕事」で散逸の危機 合同10.30
  全国的に遅れている歴史資料の調査と管理―。県立先哲史料館の全国アンケート調査で、個人や企業・団体が所蔵し、地域の歴史を物語る古文書などの記録史料が散逸の危機にあることが浮き彫りになった。大分県では現在、詳細調査を継続中で、「アンケート結果を基に、失われれば取り返しのつかない地域史料の保存に警鐘を鳴らしたい」と話している。
 調査は歴史資料の保存利用にかかわっていると思われる全国の機関・組織が対象。具体的には都道府県の文化財保護担当課や県史編さん室、図書館、博物館、文書館などで、二百一件の回答があった。
 その結果、何らかの調査をしている都道府県は二十八で、うち「史料を限定せずに行っている」ところは二十一にとどまっており、半数の都道府県で地域史料が掌握されていないことが分かった。特に、過去も含めて調査をしていないところが八県に上った。
 調査をしていない理由として、文化財保護担当課は「文書館や県史編さん室がするから」、図書館も「文書館ができたから」などの回答が目立った。ところが、文書館は「対象は行政文書のみ」として、地域史料を扱わないケースが多い。いずれも重要性は認識するものの、主管部署が明確でなく、現場ではお互いが責務を押しつけ合っている行政上の不備がうかがえた。
 古文書の中には指定文化財級のものもあるが、文化財保護担当課では地域史料の調査ばかりでなく、文化財指定業務においてすら「古文書」関係が停滞している現状にあったという。
 地域史料の調査・管理の大切さは、阪神大震災をきっかけに再認識された。先哲史料館の平井義人主幹研究員は「大分県の調査でも二十年前に確認できた地域史料のうち、23%が現在所蔵先不明。史料の散逸を防ぐには、地域史料の調査事業を継続し、常に所在を確認する以外にはない」と話している。

森機関庫、合同HPより
◎機関庫の有形文化財を目指して1万人署名運動 合同10.24
  玖珠町のJR豊後森駅に現存する機関庫を国の登録有形文化財にしようと、町民有志らが「一万人の署名運動」を始める。十一月十六日、くすまちメルサンホールで「豊後森機関庫保存準備委員会」を開き、玖珠、九重両町民を巻き込んだ草の根運動を展開する。保存を求める声は約二十年前から上がっていたが、実際に形となって動き出すのは今回が初めて。
 機関庫の本格的な保存に向けて運動を始めたのは、同駅周辺の地元商店主をはじめとする発起人会のメンバー十九人。
 (1)扇形の機関庫が残っているのは玖珠町と京都市だけ(2)第二次大戦時の機銃掃射跡が残り、貴重な歴史的体験を持つ(3)大分、鳥栖(佐賀県)の鉄道中継ポイントとして、戦前戦後の地域経済を支えた(4)芸術的建造物としての価値を持つ―ことなどを背景に、「文化遺産としての資質を十分に備えている」と判断した。 関係者は今年の夏から、運動の展開方法について慎重に協議を進めてきた。より多くの人に賛同を求めるため、玖珠郡内のあらゆる団体、グループの代表者にはがきを郵送。準備委員会への出席を呼び掛けると同時に、署名運動に対する協力を依頼した。 発起人の一人、野村芳之さん<47>=日田市上野町泉=は「将来の財産として、機関庫の建物を後世に残す必要がある。準備委員会の開催日は、六十七年前に機関庫が落成した記念の日。年末まで署名運動を展開し、みんなの力で目標の一万人を集めて町、県、国に働き掛けたい」。
 小林公明町長は「所有者のJR九州との関係上、町として協力できる範囲に限りはある。しかし、シンボル的存在でもある機関庫の保存運動を盛り上げるためにも、できる範囲で支援していきたい」と話している。
[機関庫] 一九三四(昭和九)年十一月十六日、久大線の全線開通とともに豊後森駅敷地内に完成。鉄筋コンクリート造り(千七百八十五平方m)で、最盛期は職員二百五十人が蒸気機関車四十本を運行、一日の乗降客数は五千人を超えた。七一年に廃止となり、現在はJR九州が管理している。 

 写真は日本でわずか2ヵ所だけしか残っていないJR豊後も利益の扇形機関庫

★別府の浜田温泉 建て替え工事始まる 合同10.23
  別府市の浜田温泉(亀川浜田町)建て替え工事が二十二日、道路を挟んで同温泉の東側にある建設地で始まった。建設業者が重機などの機材、資材を運び込んだ。工事は来年二月十五日までの予定。 一方、同温泉の木造での修復、保存を求めている市民グループ「浜田温泉修復保存の会」(高橋鴿子代表)は同日、同市青山町の「聴潮閣高橋記念館」で会の趣旨に賛同する市民との懇談会を開いた。 高橋さんがこれまでの活動を報告。「温泉文化を伝える文化遺産であり、観光資源となる浜田温泉は残さなければならない」と述べた。出席者からは「建物の価値や修復の可能性について、さまざまな意見がある。情報を整理してきちんと評価することが必要」「浜田温泉の魅力を住民に訴えて仲間を増やしていこう」などの声が出た。

泉福寺仏殿 合同HPより
◎国東町の泉福寺仏殿が国重要文化財に 合同 10.20
 国の文化審議会が十九日開かれ、県内からは国東町横手の「泉福寺仏殿」が国重要文化財に指定されることが決まった。
 泉福寺は曹洞宗寺院で、一三七五(永和元)年、大友一族の田原氏能(たわらうじよし)が、無著妙融を開山(開祖)として創立したといわれる。仏殿は一六九四(元禄七)年の棟札によると、一五二四(大永四)年の建立。建物各部の様式手法からも同時代だと判断されるという。
 仏殿は中世にさかのぼる本格的な禅宗様仏殿の数少ない遺構。曹洞宗寺院としては日本最古で、九州でも唯一の例として歴史的価値が高いと評価されている。元禄期に修理されているが、中世の特徴を継承している。
 同寺では、既に開山堂(無著妙融の墓)と宋版宏智録(そうばんわんしろく)が国重要文化財となっている。


★紅葉シーズン前に「青の洞門」の工事が終了合同 10.10
  本耶馬渓町が町内曽木の観光名所「青の洞門」を通る町道樋田・中島線で進めていた岩肌のはく離防止工事が九日までに終了した。町は十日午後にも通行止めを解除する。
 同工事は、青の洞門の南端のトンネル近くで、高さ四m余りの岩肌の一部が落下したのに伴い、町が進めていた。工事では、岩肌が風化してはがれ落ちるのを防ぐため、落下した場所や周辺にモルタルを吹き付けた。
 吹き付け面積は約六十平方m。「観光名所でもあり、工事は景観にも配慮して必要最小限にとどめた」と町建設課。十日午前に完成検査をした後、周辺を清掃して通行止めを解除する方針。「早ければ正午すぎにも通行できるだろう」と話している。 岩肌がはがれ落ちた九月十六日以来、二十四日ぶりに洞門見学が楽しめるようになる。

★浜田温泉、計画通りの建て替えを 自治会が要望 合同10.10  別府市の浜田温泉建て替え問題で、地元の亀川浜田町自治会(河野博司会長)の役員六人が十日、市や市議会を訪れ、「当初の計画通り建て替えを進めてほしい」と要望した。同市は、鉄筋コンクリート平屋建ての新しい浜田温泉の建設工事を今月中に始め、来年三月に完成させる予定。
 河野会長らは安倍一郎助役、三ケ尻正友市議会議長と面談。「浜田温泉が改築されることになり、地元は大変喜んでいる」と伝えた。安倍助役は「地元の要望を尊重して事業を進めていきたい」と答えた。
 市議会では三ケ尻議長の仲介で、村田政弘氏(無所属クラブ)ら市議四人と自治会役員が会い、市議側が「よりよい浜田温泉について、地元の皆さんと話し合いたい」と申し出た。河野会長らは「この場では決められない」としながらも、今月中にも意見交換の場を設けるため、日程を調整することになった。
 現在の浜田温泉の修復、保存を求める運動について河野会長は「人それぞれに考え方がある。町内からは(今の計画に)苦情などは来ていない。地区のお年寄りに新しい温泉に入ってもらいたいという気持ちで要望してきた」などと話した。

★「浜田温泉保存を」APU学生が署名活動 合同 10.6
 別府市が建て替える浜田温泉に対し、立命館アジア太平洋大学(APU)のサークル「泉人会」の学生が五日、JR別府駅前で浜田温泉の修復、保存を求める署名活動をした。市民グループ「浜田温泉館修復保存の会」(高橋鴿子代表)に協力するためで、十数人が参加した。 白地に温泉マークが入った自前の浴衣を着た学生たちは「別府の大切な財産である浜田温泉を残しましょう」と呼び掛けた。
 泉人会は別府の観光や温泉を研究し、まちおこし活動をしている。学生の一人は「浜田温泉はAPUに近い亀川にある伝統的な建築物であり、留学生に日本の文化を伝えるためにも残してほしい」と話した。

★浜田温泉 月内に工事着工へ  10月5日 合同
  別府市が建て替える浜田温泉(同市亀川浜田町)の新築工事などの入札が五日あった。計画通り来年三月に完成させるため、今月中に着工する。
 各工事の指名を受けた市内の業者計十五社が入札に参加。落札額は建物新築と付帯工事を含め約五千五百万円だった。新しい建物は鉄筋コンクリート平屋建て(百六十八平方m)で、車いすで浴室に入れるバリアフリー構造。外装に木材を使い、今の浜田温泉を模した外観にする。
 木造の建物の保存に関して市は、市民グループや議会の意向を受け、現在の木造建物を取り壊して駐車場にする従来の計画から「保存について前向きに検討する」としている。
 市民グループ「浜田温泉館修復保存の会」(高橋鴿子代表)の二十人は同日、井上信幸市長あての三千七十一人の署名を提出。前回と合わせ署名は八千九百四人になり、あらためて現在の木造建物の修復保存を求めた。入札が実施されたことを「予定通りなんですね」と残念そうだった。
高橋代表は林慎一市長公室長に「永六輔さんら県外の人も数多く賛同してくれた。建物の保存を検討してくれるのはありがたいが、修復、保存して温泉として使うよう重ねてお願いしたい」と訴えた。林室長は「要望については市長に伝える」と答えた。
 同会は今後も市から満足できる回答が出るまで、署名集めを続けるほか、地元との意見交換などを検討している。

★浜田温泉 「近代的遺産」指定を 県文化財保存協  10月4日 合同

  浜田温泉(別府市亀川浜田町)の建て替え計画をめぐる問題で、県文化財保存協議会(二宮淳一郎会長)は三日、同温泉を木造建築のまま入浴できる状態で残すよう市に申し入れた。
 協議会の阿南健一副会長や用松律夫事務局長ら六人が市役所を訪ね、木造の建物を修復、保存することや、近代化遺産として市の文化財に指定し、保存措置を講じる―との要望を読み上げ、林慎一市長公室長に渡した。
 林室長は鉄筋コンクリートによる建て替え計画に関し、「地元の強い要望を踏まえた上で進めてきた。(五日の)入札は予定通り行うが、これとは別に現在の建物の保存も前向きに検討している」と説明し、市の方針に理解を求めた。
 同協議会には百八十人の会員がおり、文化財の保存運動や学習会などを開いている。
 阿南副会長らは「市は(鉄筋コンクリートでの建て替えを)地元の要望と強調するが、建て替え計画について十分に情報を提供してきたのか疑問が残る。別府の顔とも言える個性的な温泉建築を二十一世紀のまちづくりに活用してほしい」と訴えた。
☆浜田温泉 当初見積もりでは「木造が安い」   10月3日 合同
 別府市が建て替えを計画している浜田温泉に関し、同市の委託を受け、大分大学工学部の井上正文教授が二月にまとめた同温泉の建物耐久度測定調査で、素案の段階で盛り込んでいた建築方法による見積もり比較を最終報告書に掲載していなかったことが三日、分かった。  同市によると、井上教授が昨年十一月にまとめた報告書の素案段階では、木造改修、木造新築、鉄筋コンクリート新築の見積額を出していた。素案では、費用は鉄筋コンクリートによる新築が最も高額で、木造新築、木造改修の順だった。  最終報告書をまとめる前に、井上教授と同市の担当者が報告書の内容を協議した結果、建物の規模や使用する材料の種類などによって、それぞれの見積もりの条件が変わるため、いずれの見積額も掲載しないことにしたという。  井上信幸市長は、浜田温泉問題に関し、九月議会の一般質問で「木造では(鉄筋コンクリート造りに比べ)倍以上の費用がかかる」と答弁した経緯がある。
 

★「浜田温泉は木造で修復を」 保存協、市に提出へ  10月2日 合同

  県文化財保存協議会(二宮淳一郎会長)は、浜田温泉を現状の木造建築で保存、修復するよう求める要望書を三日に井上信幸市長に提出する。 要望は(1)入浴可能な状態を保ちながら木造での保存と修復を図る(2)歴史的建造物の近代化遺産として市の文化財に指定し、保存措置を講じる-の二点。 同協議会は幹事会で、別府の象徴的な温泉文化遺産としての意義を持ち、昭和初期の代表的建築物といえる浜田温泉の保存を求める決議をした。
 二宮会長は「別府でも古いものが次々に取り壊されている。建て替え計画によって、歴史的建造物がなくなる危機に直面し、多くの市民から保存と修復を望む声が出ている」と話している。 要望書

☆「美しいまちなみ賞」大賞に日田市豆田地区   10月2日 合同
国土交通省の本年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」で、日田市豆田地区が特に優れたところに贈られる大臣表彰「美しいまちなみ大賞」(全国四地区)に選ばれた。  同表彰は昨年までの「都市景観100選」を衣替えし、本年度からスタートした。官民が協力して、町並み整備や維持・保全で地域活性化を図っている地域に大賞・優秀賞・特別賞を贈る制度。  豆田地区は▽多摩ニュータウンライブ長池地区(東京・八王子市)▽蔵の辻地区(福井県武生市)▽大阪府門真市末広地区とともに、最も優れたところとして大賞に選ばれた。  豆田地区は一九八三年ごろから、地元住民が古い町並みを生かした町づくりを始めた。町並み保存推進協議会など市民の協力で、市が家屋の実態を調査。国の都市景観形成モデル都市の指定を受け、町づくりルール「市都市景観条例」を制定。「歴史国道整備事業」による電線地中化なども進めてきた。  さらに豆田地区都市景観ガイドラインを設け、地区内の建築物を町並みに合わせる場合、助成や融資も実施。行政と民間が一体となった町並み保存・環境づくりに取り組んできた。春のおひな祭り、秋の天領まつりは有名。  四日、東京都で催される本年度「都市景観の日」中央行事で表彰される。県内ではこれまで、九三年に臼杵市が「都市景観100選」建設大臣賞に選ばれている。  写真は「美しいまちなみ賞」に選ばれた日田市豆田地区、古い町並みが残り、電柱は地中化されている
 

●勅使河原彰氏が尖石縄文文化賞を受賞  考古学通信 10月一日
茅野市は27日、第2回「宮坂英弌(ふさかず)記念 尖石縄文文化賞」に、在野の研究者
で「縄文文化」などの著書がある学校事務職員勅使河原彰氏(埼玉県所沢市)を選出した。 
 管理人:大文協も何度も講師として来ていただいた。おめでとうございます。

★「浜田温泉守れ」の熱意広がる  9月27日 合同
  別府市が鉄筋コンクリートによる建て替えを計画している浜田温泉(市内亀川浜田町)を木造のまま修復して保存すべきだとの声が高まっているが、同市議会の議員十七人は二十六日、連名で十月三日に臨時議会を開くよう井上信幸市長に請求した。浜田温泉を泉都・別府の文化遺産と評価して、現在の市有区営温泉から市が直接管理する市営温泉にするよう関連する市条例の改正を求めている。
 現在の浜田温泉は築後六十年以上を経過した寺社風の木造建築。条例改正をてこに、建て替え計画の見直しを促し、建物の保存改修を求めることも視野に入れている。
 請求したのは自民党を除く、社民、公明、市民の声クラブ、共産、無所属クラブの各会派の議員。社民党議員団の内田有彦会派長は「市民グループによる浜田温泉の保存運動などが広がっている。その熱意を受け止めて浜田温泉の価値をもう一度考えるため、臨時議会を開くよう求めた」と話している。
 執行部は、突然、請求されて驚いた様子。安倍一郎助役や池部光観光経済部長らが緊急に協議した。「急なことなので請求の趣旨がまだ分からない。対応を検討しなければ」などと話した。
 亀川浜田町の河野博司自治会長は「議会関係者から何の話も聞いていないので理解できない。地元は市の建て替え計画を支持している。着工が遅れたり、計画の見直しにつながるのは困る」と話した。
 浜田温泉の建物や土地は市所有で、地元自治会が管理運営する市有区営温泉。老朽化したため、市は今年の三月議会に建て替えに必要な予算案を提出、同市議会は可決した。市は十月五日に新築工事や付帯工事の入札を予定している。 同市内では女性グループ「浜田温泉館修復保存の会」が署名を集めたり、市議に出席を呼び掛けて懇談会を開き、浜田温泉の修復保存を訴えている。

◎早水台遺跡(9月23日)−大分県− 9月27日 考古学通信
 日出町の早水台遺跡を調査していた東北大学学術調査団は、中期旧石器時代(約13万年〜3万年前)までさかのぼる石器を発掘したことを明らかにした。同遺跡の発掘調査は、同大が1964年に実施して以来で、地表下約1.2mの安山岩の角れき層から、瑪瑙や石英製のスクレイパー、石核、剥片など数点を含め石器とみられる約1100点が発掘されたという。同角れき層は約3万年前の噴火でたい積した火山灰層より下で、少なくとも中期旧石器時代までさかのぼることは確実とみられている。旧石器発掘ねつ造問題で史料の見直しが進む中で、今回の出土石器の基準史料としての位置づけに期待が寄せられている。

★登録有形文化財 新たに6ヶ所  9月22日合同

国の文化審議会が二十一日開かれ、登録有形文化財に県内から新たに六カ所九件の登録が答申された。これで県内の同文化財は七十七件となった。
 新たに登録されるのは、別府市鉄輪の冨士屋旅館の四件(主屋・前門・石段・石垣)と院内町の石橋五件。冨士屋旅館は鉄輪温泉のしにせ旅館で、一八九八(明治三十一)年築。旅館へのアプローチから建物まで、明治以降の歴史的景観をよく伝えている。
 院内町の石橋は▽鷹岩(たかいわ)橋▽中島橋▽水雲(すのり)橋▽念仏橋▽櫛野(くしの)橋。いずれも一九二〇年代の大正後期から昭和の初めにかけて築造された単アーチまたは二連アーチ橋。

★一部崩落の「青の洞門」は来月中旬に復旧  9月19日 合同
  本耶馬渓町曽木の観光名所「青の洞門」を通る町道樋田・中島線で岩肌の一部がはがれ落ちた事故で、町は十八日から、県、県教委とはく離防止工事の協議を始めた。秋の観光シーズンを控え、町は十月中旬までに工事を終え、通行止めの解除を目指している。
 十六日午後、トンネル入り口付近の高さ四m余りの岩肌の一部がはがれ落ちた。町はトンネルの前後約三百mを通行止めにする一方、専門業者とはく離防止の工事方法などについて検討に着手していた。
 一帯は日田耶馬英彦山国定公園に指定されている。さらに、青の洞門の上にそびえる奇岩秀峰群の競秀峰は「名勝耶馬渓」にも指定されていて、工事は法的制約を受ける。このため、町は十八日から工事方法や必要な手続きについて県、県教委と協議を開始した。
町建設課は「手続きがスムースにいけば、今月中にも工事に着手できるだろう。工期は二週間程度を予想している」と話す。工法はモルタル吹き付けで、その範囲は景観に配慮して二十〜三十平方m程度にとどめる方針。

★青の洞門」一部崩落 トンネル通行止め9月17日 合同
  十六日午後二時半ごろ、本耶馬渓町にある観光地「青の洞門」を通る町道でトンネルの岩肌の一部が崩落した。歩行者や通行車両はなく、けが人はなかったが、同町は「さらに崩落する恐れがある」として、トンネル部分の町道約三百mを通行止めにした。十七日に専門業者と一緒に現地調査をする方針。
 中津署や同町、目撃者の話によると、崩落はトンネル中央部からやや南寄りの付近。地上二m付近の岩肌の一部(幅四〇〜五〇cm)が歩道に崩落、砕けた岩が歩道や車道に飛び散った。トンネル内部には部分的に落石防止ネットが整備されていたが、今回の崩落個所にはなかった。
 この日は天候も良く、付近の公共駐車場は観光バスや乗用車で半分程度、埋まっていたという。
 発生時、崩落現場から約五m離れた歩道を歩いていた福岡県吉富町の是石耕平さん<17>は「あぜんとして、一瞬動けなかった。もし頭上を直撃していたら…」と身震い。
 同町建設課は「年に数回程度、二、三cmほどの小石が落ちていたという情報が寄せられる。素掘りの形状を生かすように、随時トンネル内の保護工事をしている。秋の観光シーズンを控え、早急に対応策を取りたい」と話している

★「ねつ造疑惑報道」で文春を提訴へ 9月19日 考古学通信

自殺した別府大名誉教授の遺族大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴の発掘調査をめぐり、週間文春の「ねつ造疑惑」報道などに抗議したとみられる遺書を残して今年3月に自殺した賀川光夫別府大名誉教授の遺族が15日、大分市内で記者会見し、11月に発行元の文芸春秋を相手取り、賠償と謝罪を求め大分地裁に提訴することを明らかにした。 

★賀川さんの遺族が名誉棄損で文芸春秋社など提訴へ9月17日合同  

週刊文春による聖嶽洞穴(本匠村)のねつ造疑惑報道に抗議し、今年三月に自殺した別府大学名誉教授賀川光夫さん<78>=当時=の遺族三人は十五日、「何の根拠もないまま、ねつ造に関与したかのような報道をされ、名誉を棄損された」として同誌を発行する文芸春秋社などを相手に、謝罪広告の掲載と損害賠償を求める訴訟を大分地裁に起こす考えを明らかにした。同日、大分市内で弁護団(代表・徳田靖之弁護士・三十人)を結成、十一月一日の提訴を目指している。
 遺族側は賀川さんの死後、同社に報道への経緯説明を求めて話し合った。しかし、納得のいく説明はなく、再度の話し合いも断られたことから提訴に踏み切ることにしたという。
 原告の長男洋さん<45>と二男真さん<39>は「父の人格が傷つけられ、学者としての人権が侵されたことは許し難い。すべての努力が一つの心ない報道で壊された」と心境を述べた。
 徳田弁護士は「人格高潔な素晴らしい人が、死に追いやられたことに対し、名誉を回復するとともに安易な報道に警鐘を鳴らしたい」と話した。さらに県弁護士会員の半数近くが加わる“異例”の大弁護団になったことについて、「賀川さんに加えられた屈辱は、大分そのものが受けたという思いがあるからではないか」と説明した。
 週刊文春の木俣正剛編集長は「小誌の報道の真実性は、その後の学術調査報告書によって裏付けられたものと確信しております」とコメントを出した。
 週刊文春は今年一月から三月までの三回と、賀川さんの死後一回の計四回にわたって、聖嶽(ひじりだき)関係の記事を掲載した。
 最初の記事は一月二十五日号。「『第二の神の手』が大分『聖嶽人』周辺にいる!?」と、賀川さんが団長を務めた約四十年前の調査に「ねつ造」疑惑の目を向けた。二月一日号と三月十五日号で、「ねつ造」を断定する記事を掲載。「あたかも賀川さんが関与したかのような内容だった」(弁護団)。
 賀川さんは、これら週刊誌の記事に抗議。三回目の記事が出た直後の三月九日夜、日出町内の自宅で自殺した。週刊文春はさらに三月二十二日号でも、聖嶽の記事を掲載した。
 聖嶽洞穴は一九六二年に調査され、国内で唯一、旧石器時代の石器と人骨が一緒に出土した遺跡とされた。しかし、九九年の再調査では、その評価が疑問視されている。

★浜田温泉を残して」 5800人の願い提出 9月12日 合同
  建て替えが論議されている別府市亀川浜田町の浜田温泉に関し、同市の市民グループ「浜田温泉館修復保存の会」(高橋鴿子代表)は十一日、現在の木造建物の修復保存を求めて五千八百三十三人の署名簿を同市に提出した。同会は今後も署名活動を続け、修復を求めていく。
 高橋代表らは「浜田温泉は別府にとって失ってはならない建物だという思いで集めました。文化的遺産と認め、今の形での修復をお願いしたい」と要望。応対した池部光観光経済部長と林慎一市長公室長は「安全性や維持管理など総合的に判断して鉄筋コンクリートでの建て替えを決めた。意見は今後の施設整備などに生かしたい」と理解を求めた。
 高橋代表らは今月一日から八日まで浜田温泉前や市内の街頭、インターネットなどで署名を集めた。署名した人の約八割が県内、二割が県外という。高橋代表らは「観光客などから反響が大きかった。今月末までは署名活動を続ける」と話している。

☆豊後高田市の商店街によみがえった“昭和の町”   9月11日 合同
豊後高田市の中心商店街に“昭和の町”がよみがえった―。商店主の高齢化や後継者不足、郊外型大型店の進出といった問題を抱える既存商店街の再生を懸けた試みで、テーマは同市の商店街が最も元気だった昭和三十年代。昭和をテーマとした町おこしの取り組みは全国に数多くあるが、「生きた商店街」を活用したのは東京・青梅市などに次いで三カ所目。十日に十四の商店・拠点施設が一挙にオープンし、中央通りの桂橋そばでオープニングセレモニーが催された。  この取り組みは、商業者有志が三十年代の町並み再生を目指して二年前に結成した既存商店街再生研究会議がきっかけ。  市中心部には現在、八商店街に約百三十店舗あり、うち昭和の十四施設は五商店街のメーンストリート沿いに点在。菓子屋、肉屋、薬局など建築当時の姿をよみがえらせた「昭和の店」、「昭和のまちなみ思い出写真館」「昭和のよろず屋匠館」などがある。  セレモニーには関係者ら約百二十人が出席。主催者を代表して豊後高田商工会議所の是永実会頭が「商店主の心意気を感じてほしい」、来賓の永松博文市長が「皆さんの力で商店街の名物にしてほしい」とあいさつ。くす玉を割った後、観光ボランティアガイドの案内で町並みを巡った。  同市の商店街は古くから西国東郡地域の商圏の中心として栄えたが、昭和初期〜中期の全盛期に比べると商店数は約半分に減少。特に近年は空き店舗が目立ち、金融機関の移転や大手スーパーの撤退など衰退に拍車が掛かっている。  市商工観光課と同商議所は「昭和三十年代は、今生きている人の記憶の中にある。今後、どうやってもうけにつなげていくか検討を進めたい」と話した。   写真はオープンした「昭和のよろず屋匠館」(右)と「昭和の店・杵や」(右から2番目)

★南小学校三年生がレトロな建物を見学 9月7日 合同

 南小学校(大野勝義校長)は「もっと地元の良さを知ろう」と、三年前から別府市中心街の路地裏探検をしている。今年も総合的学習の一環として三年生四十人が駅前高等温泉や不老泉、竹瓦温泉など古くからある温泉や別府カトリック教会、市児童館などのレトロな建物を見学した。
 別府八湯竹瓦倶楽部(野上泰生代表)が協力。路地裏散策のガイド、河村建一さん(別府末広郵便局長)が九十年前の別府駅周辺や海岸沿いの写真を見せて建物の歴史を説明した。
 児童は、国道10号が埋め立て地に造られ、市街地にかつて田畑があったことを聞き、驚いていた。木村望君は「蓄音機や古い電話機、時計を見ました。とても面白かった」、大田彩瑚さんは「細い道が昔の国道だったのですね。知らないことがたくさんありました」と感想。
 横山つね子教諭は「歴史を勉強するだけでなく、地元の良さを伝えたいと活躍している人がいることを知り、なぜそういうことをしているのか関心を持ってほしい」と話した。
 河村さんは「市内には昔の素晴らしさを伝える建物がたくさんある。自分たちが住む地域について知ることで地元を愛する心が養われる。このような活動がほかの学校で行われるようになればいいと思う」と語った。

◎臼杵城下町遺跡(8月31日)−大分県− 9月6日 考古学通信
 臼杵市にある臼杵城下町遺跡(同市本町)の発掘調査を進めている同市教委は、大友時代(16世紀)初期とみられる町並み遺構が見つかったことを明らかにした。今回の調査区域は、昨年の調査区域から約50m離れており、大火で町が焼失したことを示す火災層が発見され、そこから大友氏の家紋「杏葉紋」を文様に描いた漆器椀、建物の礎石、羽子板、用途不明の人形銅製品などの遺構・遺物が出土した。市教委によると杏葉紋を使用できるのは、大友氏以外ではその家臣・同紋衆のみであり、北東約400mには大友氏の居城が位置していることなどから、現場一帯は家臣たちの屋敷跡である可能性が高いと見ている。

★「大友都市」どう生かすか さらなる調査期待 9月3日 合同
  大分市と中世都市研究会主催の大友館跡国史跡指定記念「中世大友再発見フォーラム」が一日、二日、同市コンパルホールで始まった。
 一日目は、記念講演と公開シンポジウムがあり、南蛮(なんばん)貿易で栄えた宗麟時代の国際都市・府内を再評価。全国的にも珍しい「南蛮都市」をどう生かすか、の観点から意見を交わした。
 中世都市研究会代表の石井進・東京大学名誉教授と大分市教委の御沓義則教育長があいさつ。秦政博・市教委学校教育部長が大友館跡の調査、国史跡指定までの経過を報告後、石井名誉教授が「南蛮貿易都市の軌跡」、小野正敏・国立歴史民俗博物館助教授が「戦国時代の館とその景観と空間機能」と題して記念講演をした。
 石井名誉教授は東南アジアでの「南蛮貿易」を通して、日本で初めてヨーロッパ文化を導入した南蛮貿易都市・府内の意義について強調。小野助教授も府内が「南蛮もの」と呼ばれる中国南部の華やかな色合いの壺(つぼ)などを輸入するなど、大きく変化していた時代の様子を示す都市として高く評価した。
 この後、石井名誉教授や木下敬之助市長、長谷目源太・大友遺跡検討委員会会長ら七人が、「大友復活、地域活性・住民参加、街(都市)づくり」と題して意見を交換した。四百年以上も前の府内が、ヨーロッパでも有名な国際都市だったことを再認識。今後さらに当時の教会などの発見が期待されることから、遺跡を生かしたまちづくりへ市民の理解と協力を求める声が相次いだ。
 二日目の二日は、「豊後府内の都市と交易」をテーマに中世都市研究会全国集会が同市コンパルホールで開かれた。 県教委文化課の坂本嘉弘さんと県立先哲史料館の鹿毛敏夫さん、大分市教委文化財課の高畠豊さんら四人が、最新の考古学や文献・絵図調査から見た大友館と府内の町、貿易陶磁器などについて報告。それぞれコメンテーターが意見を述べた後、全体討論で中世大友府内町の実像に迫った。
 この日も南蛮貿易で栄えた「国際貿易都市」府内の様子に関心が集まり、中国南部の華南三彩や東南アジアの陶磁器が多く出土する豊後府内の特徴が強調された。他の戦国城下町とは違って商業的な町の側面が注目され、町の発展過程など全国的にも興味深い研究対象として、今後の調査に期待する声が相次いだ。
 二日間にわたった中世フォーラムには、県内外から約五百人が参加。初日の遺跡現地説明会や記念講演・公開シンポジウムと併せて交流を繰り広げた。八月二十五日から始まった大分市の「大友ウイーク」は同日で終了。県立先哲史料館の「大友府内〜よみがえる中世国際都市」(入場無料)は、十月六日まで開催している。

◎浜田温泉の保存改修を呼び掛け署名活動   8月31日 合同
別府市が建て替える亀川浜田町の市営浜田温泉に関し、同市の市民グループ「浜田温泉館修復保存の会」(高橋鴿子代表)は、現在の木造建物の修復保存を求めて署名活動を始める。  九月一日午前、浜田温泉前で署名活動を始め、街頭で市民に協力を求めるだけでなく、郵送などで市外、県外の人にも呼び掛ける。「別府八湯」にちなんで八が並ぶ八千八百八十八人以上を目標に署名を集め、九月中旬にも市長あてに署名簿を提出する。その後も署名集めを続ける。  高橋代表らは「浜田温泉は貴重な温泉文化遺産。修復して残せば、観光面でも大きな財産になる」と保存の意義を訴える。ほかのメンバーは「建物の知名度が低く、市民が壊されることを知らない。(取り壊された)浜脇高等温泉の二の舞にしたくない」と話す。  保存の会は、市内の竹瓦温泉前で飲食店を経営している女性やデザイナーら四人で構成。七月に浜田温泉前で開かれた「風呂端(ふろばた)会議」に参加して、「亀川のシンボルとして残してほしい」という声が多かったため、署名活動を思い立ったという。  同市は浜田温泉を鉄筋コンクリートで建て替え、現状を模した木造風の外観ににする。九月に着工、来春完成する予定。その後、現在の建物を解体する。池部光観光経済部長は「建て替えは地元の要望であり、議決も得ている。予定通り建て替えを進める」と話している。  浜田温泉の建物は、別府市と旧亀川町が合併した一九三五(昭和十)年に改築された。唐破風屋根など華麗な寺社風の宮造りが特徴。  署名の問い合わせ先は、保存の会事務局(TEL0977・21・8791)

◎臼杵で大友時代の初期の町並み遺跡を発見   8月31日 合同
臼杵市教委が発掘調査をしている同市本町の臼杵城下町遺跡から、大友時代(十六世紀)初期とみられる町並み遺構が見つかった。過去の調査や出土品などから、臼杵の城下町は南側から北側へと広がっていったことが推測されており、遺構は城下町形成の過程を考察する貴重な史料になる。  臼杵の町並みは大友宗麟が丹生島城の城下町として整備したのが始まりとされる。江戸時代には、臼杵藩主稲葉氏の城下町として栄えたが、中世の町並みは宣教師ルイス・フロイスの「日本史」などにごくわずかな記録が残されているだけで、ほとんど分かっていなかった。  昨年の市教委の発掘調査で、本町通りをメーンストリートにする街路が現在ととほぼ同じと推定され、四百年以上の時を超えて当時の面影を伝える「生きた中世の町」と分かった。  今回の調査場所は、昨年の調査場所から本町通りを挟んで約五十mのところ。昨年は過去五度の大火の跡が出土したが、今回は過去七度、大火で町が焼失したことを示す七面の火災層を発見した。第七火災層から、大友氏の家紋「杏葉紋」(ぎょうようもん)とみられる文様を描いた漆器椀(わん)が出土。建物の礎石や羽子板、用途不明の人形銅製品も出土した。  当時、海岸線に近かった北側より南側が約一・三m高いことや、フロイスの日本史にも一五六五年までは、町民のことが書かれていないことなどから、市教委は「中央通りの南側に武家屋敷が形成され、徐々に北側を埋め立てるなどして町民の町が広がり、城下町を造った」とみている。  第七層の年代は不明。市教委は宇佐市の永弘家に伝わる古文書集「永弘文書(ながひろもんじょ)」にある一五五七年の「ウスキ焼失」の可能性が高いとみている

◎「田園空間博物館」構想が始動   8月25日 合同
本年度から豊後高田市と大田村で始まった田園空間整備事業(国補助事業)。基本構想や事業のメーンとなる田染荘小崎地区の整備などについて検討する第一回西高地区田園空間博物館整備地方委員会(委員長・片岡正喜大分大学名誉教授)が二十四日、豊後高田市の県高田総合庁舎であった。  同事業は農村が持つ豊かな自然や伝統文化、景観などを再評価。地域全体を田園空間博物館として整備することで過疎・高齢化に悩む地域の活性化を図るのが目的。  事業実施主体の県がまとめた整備基本構想によると、西高地区のテーマは“いにしえからの旅紀行〜八幡荘園の郷めぐり”。中世荘園から発展した資源を中心に時代ごとの農業農村の歴史、景観、文化、暮らしを保存復元。都市住民とともに時代を超えた安らぎと活気ある空間を創り出すーをコンセプトに、中核となるコミュニティー施設(小崎地区に予定)、農村公園や水車といった展示施設、田園散策の道などを整備する。工期は二〇〇五年までで、総事業費は十四億円。  委員会は学識経験者や住民代表ら委員十二人が出席。基本構想や事業計画について、委員が「中核となる小崎地区とその他の地区をつなぐ物語性がない」「地元住民が営農を継続し、生計を成り立たせられるのが第一条件。もう少しその方策を考えるべき」などと指摘。小崎地区での農業用排水路と農道の整備については、景観維持や生態系保全への十分な配慮を求める意見が相次いだ。 同委員会は来年二月までにあと二回開催。事業実施方向や具体的整備内容について検討を重ねることにしている。

★ 大文協総会および記念講演会 開催! 7月1日
 大分市アートプラザで大文協総会&記念講演会が開かれました開かれました。総会では昨年度の活動報告や本年度の活動方針が示されました。また、いわゆる「教科書問題」に対し、大文協としての見解がだされ、文化財を保存し、郷土の先人の真の歩みを明らかにする立場から、一方的で偏った歴史認識に反対する特別決議が満場一致で採択されました。
午後、記念講演会が開催され、
記念講演「自然と遺跡と人間」〜むきばんだ遺跡から〜
          講師;佐古和枝氏 関西外語大助教授 
    
報告「文化財の保存と活用」 〜安国寺集落遺跡〜
     報告者;金田信子氏 国東町歴史体験学習館 館長
佐古氏のふるさとへの思いの伝わる講演や、金田氏の国東弁での楽しい報告に笑いのもれる講演会でした
。参加者の皆さん、講演者の御二人暑い中、ご苦労様でした。
文化財情報もご覧ください

★大友氏館跡が国史跡に/大分県  8月17日 考古学通信
大分市顕徳町の大友氏館跡が13日、国の史跡として官報に告示された。国指定史跡は県内では36件目。 大友氏館跡は、鎌倉時代から戦国時代末期まで豊後の守護を務め、戦国時代には北部九州一帯を支配した大名、大友氏が守護所を置いた所。国史跡に指定されたの
は、館跡と想定されているうち、地権者の同意を得た計9887.58平方m。市教委が1998年度から確認調査をした主殿とみられる施設跡や庭園遺構、土塁跡などが含まれる

○中世・府内町に夢をはせ 26日から大友ウイーク  8月16日 合同 
大分市は「大友氏館跡」(同市顕徳町)の国史跡化を記念し、八月二十六日から九月二日を「大友ウイーク」と位置づけて、さまざまなイベントを催す。城下町散策のウオーキングや、大友氏関連遺跡の保存を考える会などによるフリーマーケット「大友河原市」などがある。  九月一、二日には中世都市研究会全国集会も開かれ、南蛮貿易で栄えた大友時代の中世・府内町に夢をはせる。  計画では、ウイーク“前夜祭”として八月二十五日午後一時から、大友氏関連遺跡の保存を考える会と南蛮文化と大友宗麟を学ぶ会・ふらんしすこが「大友河原市」を遊歩公園で催す。子供たちを対象にフリーマーケットや輪投げ、工作などで楽しい夏休みの思い出を作ってもらう。  二十六日からのウイーク中は、大友ウオーク「ビンゴで歩く南蛮都市府内」、高崎山城登山「大友宗麟・義統のお城に登ろう」、夏休み講座「大友氏・大友宗麟についてもっと知ろう」などがある。高崎山城登山は二十六日で、全長十二キロと二十キロの二コース。大友ウオークは二十九、三十日の二日間、ビンゴ形式のクイズに答えながら、中世・府内町跡を歩く。  九月一、二日はコンパルホールで「中世大友再発見フォーラム」。初日は大友氏館跡での現地説明会や、石井進さん(東京大学名誉教授)の「南蛮貿易都市の軌跡」、小野正敏さん(国立歴史民俗博物館助教授)の「戦国時代の館その景観と空間機能」の記念講演。「大友復活、地域活性、住民参加、街(都市)づくり」の公開シンポジウムがある。  二日目は「豊後府内の都市と交易」をテーマに、考古学や文献・絵図、貿易陶磁器などの立場からの報告と全体討論で、中世の府内の実像に迫っていく。出土品も一部が会場で展示される。一般参加を歓迎。問い合わせは市教委文化財課(TEL097・534・6111内線2091)。    大友氏館跡区画整理事業に伴う市教委調査で、一九九八(平成十)年に大規模な庭園跡が出土。中世の大友氏の館跡だったことが分かった。推定で約二万平方mに及び、うち約九千九百平方mを今年五月、国審議会が国史跡化を答申、官報告示で指定された。

◎大友府内町遺跡(8月3日)−大分県−  8月6日 考古学通信
 大分市にある中世・大友府内町遺跡の発掘調査を進めている大分県教委は、16世紀後半のキリスト教の護符「メダイ」が出土したことを明らかにした。 メダイは、町屋跡にある16世紀後半の土坑から、中国や東南アジア製の土器片などとともに発見され、直径約2cmの円形で厚さは約1mm。真ちゅうか青銅製と推定され、表面にイエス・キリストの
顔、裏面にキリストを抱いた聖母マリア像が浮き彫りされている。メダイはポルトガル語でメダルを意味し、ひもを通したり、ロザリオの先につけたお守りで、既に同遺跡で見つかっているロザリオの珠(たま=コンタ)とともに、日本における初期キリスト教と府内の様子を知る上で貴重な資料だと注目されている

◎弥生のムラのインストラクター養成講座が開講   8月4日 合同
国東町にある弥生のムラ・安国寺集落遺跡公園は三日、同園の案内や体験指導をするインストラクターの養成講座を開講した。インストラクターのボランティア養成はもとより、受講者が持つ知識や技術を地域に継承する機会や、生涯学習の場を提供するのが目的。  同園内の町歴史体験学習館で開講式。公募で集まった町内中心の受講生三十二人のうち、二十三人が出席。清広佳伸町教育長が「四月にオープンしたばかりの弥生のムラが、国東町の誇れる貴重な財産として育つよう、皆さんにも協力してほしい」とあいさつ。金田信子館長が、講座の趣旨を説明した。  その後、第一回の講座「勾玉(まがたま)作り」があり、勾玉についての講義を受けて、実技に挑戦。年配者が多い受講者は、きりやカッターの使い方はさすがに慣れたもの。楽しみながら、上手に勾玉を仕上げた。  今後、弥生時代や国東半島の歴史・文化を学ぶ講義のほか、火おこし、土器作り、原始機織り、アンギン織り(布の織り方の一つ)の実技を受講。各分野ごとに単位を修得すれば、その分野のインストラクター資格を取得。弥生のムラの要請に応じて、園内案内や体験指導をすることになる。

◎大友府内町遺跡から日本最古級「メダイ」出土   8月3日 合同
県教委が発掘調査をしている大分市元町の中世・大友府内町遺跡から、十六世紀後半のキリスト教の護符「メダイ」が出土した。既に同遺跡で見つかっているロザリオの珠(たま=コンタ)とともに、国内出土のキリスト教関係の遺物としてはいずれも最古級。  出土したメダイはほぼ円形で、直径二cmほど。一方にキリストの顔、片方に子どものイエスを抱えるマリアを描いたとみられる浮き彫りがあった。上部のひもをかける部分が欠けていた。県教委によると、江戸時代のメダイは多いが、中世にさかのぼるものは博多で一点(十六世紀後半)が見つかっているだけ。  加藤知弘・大分大学名誉教授(南蛮交流史)は「メダイはポルトガル語でメダルの意味。ひもを通したり、ロザリオの先につけたお守り。戦国時代のものとしては非常に珍しい。当時の府内はいち早く訪れた宣教師フランシスコ・ザビエルらの布教で、キリスト教信者も多かった。日本における初期キリスト教と府内の様子を知る上で貴重な資料だ」と話している。

◎つくる会教科書 県内全域で不採択  7月28日合同
県内の各地区で来年度から小、中学校で使う新しい教科書の採択をしているが、採択が唯一決まっていなかった竹田地区でも二十七日、「新しい歴史教科書をつくる会」が主導し扶桑社が発行した「歴史」と「公民」の教科書は採択されていないことが分かった。  教科書の採択は、県内では採択地区を六つに分けてそれぞれの地区で実施。竹田地区を除く五つの地区では「つくる会」の教科書の不採択が既に決まっている。  私立の岩田中学校(大分市)と明豊中学校(別府市)、大分大学教育福祉科学部付属中学校(大分市)でも「つくる会」の教科書は使われないという。これで県内ではすべての中学校で「つくる会」以外の教科書が使われることになる。  竹田地区では「近世までの学習内容を厳選し、現近代史の学習に多くの時間が確保できるよう構成されている」歴史の教科書を選んだという。  「つくる会」の教科書に対しては「過去の歴史に反省がない」などと韓国や中国が反発。韓国政府はこの問題に絡んで日本の学生との交流を見直す方針を出し、県内の小中学校、高校でも交流を中止するなど民間レベルの交流に影響が出ている。県内では「つくる会」の教科書が使われないことが決まったことで、教育関係者からは交流再開など日韓関係の修復を期待する声も出始めている。  教科書の採択は通常四年に一回。来年度から学習指導要領が全面改訂されるため、本年度は全国の各市町村教委で一斉に小中学校の教科書の採択をしている。
 管理人:大文協も特別決議を総会においてあげました。

◎浜田温泉を市指定文化財に 市民の会が提案書   7月18日 合同
別府市が建て替えを決めている同市亀川の浜田温泉に関し、市民グループ「浜田温泉建て替え問題を考えたい別府市民の会」(野上泰生、河野龍彦両代表)は十七日、別府市に提案書を出した。内容は、(1)浜田温泉を補修改築する(2)浜田、竹瓦両温泉などを補修し、歴史的温泉建造物として市の指定文化財にする(3)歴史的温泉建造物を保護する基金を設ける−など。  市温泉課は「議会の議決や地元の要望を尊重して浜田温泉の建て替えを進める」と従来の方針を変えていないことを伝えた。  野上代表らは「ほかの温泉地にはまねができない歴史ある温泉建築を守っていく意識を市や市民に持ってほしい」と訴えている。将来、歴史的な温泉建築や湯けむりなどの「世界遺産」登録を目指す。  市民の会は、八日に浜田温泉前で建て替えについて意見を交わす「風呂端(ふろばた)会議」を開催。そこで出た意見を集約して提言をまとめた。二十二日午後三時から今回の提言を説明する第二回会議を同温泉前広場で開く。  同市は浜田温泉を鉄筋コンクリートで建て替え、外観は現状を模して木造風にする方針で、九月に着工、来春の完成を目指す。完成後、現在の浜田温泉を解体する考え。  

◎大江雲沢の旧居 中津市に寄贈へ  7月17日 合同 
江戸時代末期から明治にかけて中津の医学、医療の発展に大きな足跡を残した大江雲沢(一八二二〜九九年)の自宅だった市内鷹匠町の古い建物と敷地が、近く中津市に寄付される。市教委は医学関係の史料館として利用する方針。  雲沢は中津藩医で、華岡青洲(外科医・一七六〇〜一八三五年)の大阪分塾で当時最先端の外科学を学んだ。一八七一(明治四)年に開設された県内初の医学校、中津医学校の創設に尽力。取立方(校長役)を務め、人材育成や医学、医療の発展に尽くした。  自宅だった建物は木造平屋(約百六十平方m)で、市文化財に指定されている。江戸時代末期の建築とみられる。明治以降に診察室などに手を加えた部分もあるが、当時の医者の家の面影を残している。敷地は約七百平方mで、南側の庭では薬草を栽培していたと伝えられる。医学史研究家などから、保存や活用を求める声が出ていた。  建物などを所有していた雲沢の孫に当たる大江忠綱さん(医師、福岡市)は、ことし一月三十日に他界。その後、忠綱さんの長男・満さん<55>をはじめ遺族で相談した結果、「父は生前、旧宅の保存を望んでいた。医学史研究家からの勧めもあり、敷地と建物を市に寄付して、史料館として保存、利用してもらうことにした」という。保管している雲沢らが使用した医学関係の貴重な文献は、市に預ける方針という。  今月二十四日、満さんらが市役所を訪れ、鈴木一郎市長に目録を手渡す予定。

◎「建て替え反対」相次ぐ浜田温泉で「風呂端会議」  7月10日 合同 
別府市の浜田温泉の建て替えを考える「浜田温泉風呂端(ふろばた)会議」が八日、同温泉前の駐車場であり、地域の人たちなど約六十人が参加した。  浜田温泉は、別府八湯の一つ亀川温泉を代表する温泉施設。老朽化したので市はコンクリート造りの建物にする計画を立てた。市民有志でつくる「浜田温泉建て替え問題を考えたい市民の会」が同会議を開いた。  参加者からは「浜田温泉は竹瓦温泉と並ぶ別府の観光資源。亀川のまちおこしの拠点で建て替えてほしくない」「亀川では数少ない絵になる建物。大切にして」など、建て替えに反対する意見が相次いだ。  このほか、「阪神淡路大震災では木造の神社の多くが倒壊した」と耐久性に優れたコンクリートの長所を強調する声が出た。「建て替えるなら車いすで利用できるようバリアフリーにしてほしい」との要望もあった。  「市議会で建て替えが議決された以上、建て替えを阻止することは難しいが、似たような問題が起きることも考えられるのでこの会議は有意義だった」との意見も出た。

★旧海軍掩体壕、国の登録有形文化財に!佐伯市 
 6月30日合同新聞によれば、佐伯市に残る旧海軍の佐伯航空隊の掩体壕が国の登録有形文化財に内定した。
 この掩体壕は、佐伯市東浜の興人佐伯工場内に残っているもので、太平洋戦争中の1943(昭和18)年、航空隊の飛行場内に建設された。幅24b、奥行き13b、高さ5bのコンクリート製、戦闘機を爆撃から守るためにの施設。
 国の登録有形文化財は県内に68件(内定を含む)あるが、戦争関連施設の登録は県内で始めて。興人佐伯工場では「地元の人が熱心に戦争遺跡の保存活動に取り組んでおり、会社としてもできることは協力したい」とのことで、掩体壕を見学するための入り口の整備、また工場内に残っている、同航空隊の戦闘指揮所も整備し、保存する方向で検討している

 管理人;大分市に残っている掩体壕を保存整備することがますます急務となりました。大分市は急いで、調査、整備するよう強く要望したい。  戦跡に新聞記事を載せてます

★ 6300年以上前の日本最古の水場遺構 現地説明会 多数の市民でにぎわいました。
  大分市横尾遺跡 6月24日文化財情報につづきがあります。        
          

●文全協佐賀大会開催! 大文協からも参加。5月26、27、28日
吉野ヶ里遺跡を始めとする見学会や、岡山大学名誉教授の吉田晶氏の講演などがありました。また、参加者の自由討論の中で、吉野ヶ里遺跡サポーターとして県教委から養成されてきた人達が、公園開園となったら国の外郭団体の管理財団によって「お払い箱」になり、入園した見学者にも不便を与えていることが明らかになりました。

 ★大友館跡 国史跡指定へ  合同 5.17

 国の文化審議会(高階秀爾会長)は十六日、「大友館跡」(大分市)や最古の貨幣とされる富本銭が出土した工房跡「飛鳥池工房遺跡」(奈良)など十三件を史跡、名勝、天然記念物に指定するよう遠山敦子文部科学相に答申した。  国史跡指定を受けることになった「大友館跡」は、戦国時代に九州六国を支配した大友宗麟ら戦国大名・大友氏の拠点。十六世紀当時、館があった府内(現在の大分市)は南蛮貿易などで栄えた。館跡からは大規模な庭園も出土し、宣教師フランシスコ・ザビエルが訪れた当時をほうふつとさせている。

★日本最古と判明 横尾遺跡の建築部材 5月16日 合同

  大分市横尾の横尾遺跡群(第八十二次調査)で見つかった縄文時代の建築部材は、市教委のその後の調査で縄文前期初めから早期末にかけて、約六千年以上前の「日本最古」だったことが十五日までに分かった。これまで国内で出土した最も古い建築部材は、同中期末の約四千年前で、それを二千年以上もさかのぼる。市教委は「日本の建築史上、貴重な発見」として、さらに時代と部材について詳しく調べている。
 建築部材は縄文後期初めのドングリ貯蔵穴のさらに1mほど下から見つかった。地層断面を詳しく調べたところ、建築部材はアカホヤ火山灰の下から出土していた。アカホヤは、南九州の鬼界カルデラから約六千年前に噴出。県内では縄文時代前期と早期にまたがる時代とされている。この結果、建築部材は前期初め(約六千年前)から、早期末(約六千三百年前)の可能性が高くなったという。
 加工された建築部材はこれまで、富山県小矢部市の桜町遺跡から出土した縄文中期末(約四千年前)が「日本最古」とされていた。横尾遺跡の建築部材はそれを二千年以上さかのぼることになり、建築史の専門家らも注目している。市教委は今後、火山灰の分析をする一方、時代を確定させる土器の発見に全力を挙げていく。
 出土した建築部材は断面が正方形に加工された長さ三・八m、縦横十八cmほどの角材。「ほぞ穴」「めど穴」と呼ばれる丸い穴が、確認できるだけで六カ所あった。原始・古代建築に詳しい東北芸術工科大学の宮本長二郎教授は「大型の高床建物の桁(けた)部分ではないか」と話している。
 建築部材は他の二つの木と一緒に、組み合わされた格好で出土。建物の部材として使われた後、水場の作業場の足固め(水場遺構)として使われていたらしい。他の二つの木も、一部に石斧(せきふ)による加工跡があることから、部材の一部の可能性が出ている。このほか姫島産の黒曜石の原石が、植物繊維で編んだかご、またはネットに入って見つかっている。
 横尾遺跡は、縄文前期から後期にかけての横尾貝塚遺跡の隣接地にある。これまでに縄文後期初めのドングリ貯蔵穴八基と多量の土器、石器が出土していた。

★6年がかりの大作玖珠町史が完成 5月15日合同

  玖珠町が編さん作業を進めていた「玖珠町史」(B5判)が完成した。約六年をかけてまとめた全三刊は、計二千三百ページの大作。十五日から町民に先行販売する。
 町史の編さんは一九九五(平成七)年に始まった。町教委内に「町史編さん係」を設け、九六年に編さん委員会(得重直委員長・十一人)を発足。町内外の学識経験者や歴史に詳しい関係者ら約百人に執筆を依頼する一方、町内全戸に情報提供を求めるアンケートを実施するなど、「町民自ら作る町史」をモットーに取り組んできた。
 内容は、自然、古代、中世、近世、宗教、文化財、民族−など十編構成。一九一〇(明治四十三)年以降の新聞資料約三万七千点のほか、町の歴史を物語る貴重な写真や「豊後清原一族」「豊後森藩領」の記録などを徹底解明。歴史ファン以外の町民にも分かりやすく掲載している。
 二千百部を刊行し、そのうち千八百部を六千円で町民に販売(今月末まで)。町外の希望者には六月一日から、八千円(送料別)で発売する。
 小林公明町長は「県内の各町村史に比べて内容も充実し、素晴らしい出来栄えになった。二十世紀からの贈り物として活用しながら、未来の町発展の糧にしたい」とPRしている。
 購入方法などの問い合わせは、玖珠町教委生涯学習課(TEL09737・2・1111)へ。

★縄文時代の建築部材が出土 大分市の横尾遺跡 5月14日合同

  大分市教委が発掘をしている同市横尾の横尾遺跡群(第82次調査)から、4000年以上前の縄文時代の建築部材が出土した。長さ3.8mもある角材1点で、「ほぞ穴」を開けるなど高度な加工もしていた。大型の高床建物の柱や桁(けた)などではないかとみられ、全国的にも極めて珍しい発見。縄文後期前葉より古い地層から出土しており、これまで「日本最古」とされた富山県桜町遺跡の中期末よりさかのぼる可能性も出ている。「竪穴住居」が思い浮かぶ縄文時代のイメージを、大きく変えるものとして注目されそうだ。
 大分市教委は十三日、縄文時代後期(約四千年前)以前の建築部材が出土した同市横尾の横尾遺跡群(第八十二次調査)の発掘報告会を同市歴史資料館で開いた。
 約五十人の市民らが参加。同市教委文化財課の塩地潤一さんがビデオとスライドで遺跡周辺の地形と調査状況を紹介。実際に出土した土器や石器も見せながら、全国で二例目とされる建築部材や、ドングリ貯蔵穴などについて話した。
 建築部材については「明らかに、ほぞ穴やめど穴と呼ばれる加工した跡が残っていた。縄文時代の建築について考える第一級の資料。かなりすごい大発見になるのではないか」と評価。「いつ使用されたのか、どういった建物だったのか、どこの部分なのかを、これからさらに調べたい」と話した。
 建築部材は五日ほど前に確認されたばかり。長さ約三・八m、縦横十八cmの角材。作られた時期は「日本最古」にさかのぼる可能性もある。ホットなビッグニュースを担当者が直接話すとあって、参加者も盛んに質問するなど熱心に話を聞いていた。

★横尾遺跡で柱か桁に使われた角材出土(5月13日)合同

出土したのは長さ3・8b、縦横18センチほどの角材。六ヶ所に反対側に抜ける「ほぞ穴」、側面に抜ける「めど穴」とみられる丸い穴(直径2a前後)が作られている。前回の説明会時に大勢の参加者が見学した「ドングリ貯蔵穴」〔縄文時代後期前葉(約四千年前)〕の約1メートルしたから出土。角材は他の丸太などとくみ合わせ、水場の作業場の足固め(水場遺構)として使われていたらしい。土器が一緒に出ていないが、後期前葉より古いことは間違いないという。市教委によると、高床建物の加工された部材は、弥生時代では多く出土している。しかし、縄文時代では富山県小矢部市の桜町遺跡につぐ発見という。有名な三内丸山遺跡では、柱の根元しか見つかっていないという。市教委は「県内でも縄文時代に大型の高床建物があったことや、四千年以上まえから現代に通じるような技術が使われていたとは驚きだ。石斧(せきふ)で削り、きり状の石器で穴を開けたらしい。当時の人たちの息づかいが聞こえてきそうだ」と話している。なお13日大分市教委は横尾遺跡群の発掘報告会を大分市歴史資料館で開催しました。出土品は同資料館で六月三十日まで展示されているそうです。文化財情報も参考してください

★クラウス号宇佐神宮に゛雄姿゛再び 5月14日合同   宇佐市の有形民俗文化財になっている明治期のSL「クラウス号」の修復が完了し、十三日、同市南宇佐の宇佐神宮境内で除幕式があった。
 クラウス号は一八九一(明治二十四)年にドイツのクラウス社で製造された小型SL。長さ七・五m、幅二・五m、高さ三・六m。同型の車体は日本に四両現存している。
 戦後、旧国鉄が大分交通に譲り渡し、宇佐参宮鉄道(高田町−宇佐八幡宮前、八・八キロ)を六五年の路線廃止まで走った。その後、宇佐神宮境内に展示していたが傷みがひどく、走れクラウス号!二〇〇一人計画実行委員会(西太一郎委員長)が一口五千円で千三百人を超える「文化財スポンサー」を募って修復した。
 除幕式に参加した元運転士の秋本武夫さん<81>=同市南宇佐=は、現役当時を思わせる重量感のある車体を前に、「運転の仕事は楽しいこと、苦しいことがいろいろあった。立派になって戻ってきたことを心からうれしく思う」と感想を話した。

★安藤宏子さんが「幻の豊後絞り」を発見 5月1日 合同

  大分市出身の染色家、安藤宏子さん<59>=名古屋市在住=がこのほど、江戸時代に隆盛を誇った「豊後絞」の技法を受け継いだ浴衣と布団、型紙などを竹田市で発見した。安藤さんは三十数年前から“幻の豊後絞”を調査している第一人者。「ようやく地元で巡り合えた。全国各地を探し回ったが、これまで発祥の地大分に現物が残っていなかったので感激」と喜んでいる。
 安藤さんは愛知大学に勤務していた時、名古屋の染め物産地「有松・鳴海」地区に残る絞り技法が、「ぶんご」と呼ばれていたことからルーツ探しを開始。絞り染めが残る全国の産地を訪ね歩いて資料を集めた。
 二年前、別府市にも居を構えてから、本格的に県内の調査を開始。十年ほど前、木綿や藍(あい)染めの産地だった竹田市が安藤さんを招いて染色講座を開いた。それが縁で、さまざまな情報が寄せられ、市内の佐藤唯一さん<84>宅で“しぼりばあちゃん”と呼ばれた、名手が作った絞り染めの夏布団(一・五m×一m)や染色用の型紙(四〇cm×五五cm)、下絵が見つかった。このほか、九重町では豊後絞や染めの技法を身につけていた安部艶子さん<78>に会って話を聞くこともできた。
 豊後絞の調査に関しては、郷土史家の加藤貞弘さんの協力も受けた。大分市の鶴崎地区が、室町時代末期から江戸期にかけて将軍家に献上されるほど良質な木綿の産地だったことが分かった。同時に藍染めや絞りの技術も発展、同地区を三浦氏が治めていたことから「三浦木綿」と「三浦絞」の名が付き、有松・鳴海に渡って絞り技法が「ぶんご」と呼ばれるようになって現代に残ったという。
 明治期になって発祥地での豊後絞は廃れたが、大正〜昭和初期には泉都・別府の観光土産「別府絞り」として人気を集めた。一方、独特の絞り技法は県内各地の家庭に脈々と受け継がれていた。木綿は最後は、ぞうきんになるまで使われ、処分されていたので残存しているものが少なかった。
 安藤さんは、豊後絞と同じように別府絞も現在ではほとんど姿を消しつつあることに心を痛めている。「県や市のバックアップでもう一度大分発の豊後絞を盛り上げたい」と意気込んでおり、主宰する「ぶんご遊草会」では、豊後絞の技法を受け継ぎ伝承できる人材を育成中。「将来は発祥の地を記念する展示館を建設したい。たとえ切れ端でもあれば情報を寄せてほしい」と呼び掛けている。情報の提供と問い合わせは「ぶんご遊草会(TEL097・552・6126)まで。

★大分市歴史資料館で「新収蔵品展2」開催 5月1日 合同

  大分市歴史資料館で、テーマ展示「新収蔵品展2」が開催中。大友氏ゆかりの古文書や文芸資料をはじめ、同資料館が収集した郷土にかかわる錦絵や漫画など、貴重な資料約三十点が並ぶ。六月二十四日まで。
 会場に展示しているのは、大友氏にかかわる品のほか、豊後高田市出身の本草学者、賀来飛霞の写生図、平安末期の豊後の武士、緒方惟栄にまつわる伝説がかかれた錦絵など。
 展示品の一つ、「十二月言葉手鑑」は、金泥を施した「打曇紙(うちぐもがみ)」と呼ばれる紙に、「源氏物語」の一節を記したもの。花押の形態から大友義統が書いたといわれ、義統の和歌や文学の素養、大友氏の学術文化のありさまがうかがわれる。
 宇佐出身の漫画家、麻生豊さん(一八九八〜一九六一)の四こま漫画「ノンキナトウサン」の原画も展示。関東大震災後の被災者を励まそうとかかれた作品で、世相を反映する優れた風俗漫画として知られる。
 同資料館は「郷土の歴史資料をぜひこの機会に見てほしい。漫画もあるので、家族連れでどうぞ」と話している。
 開館は午前九時から午後五時まで。入館料は大人二百円、高校生百円。小、中学生は無料。月曜日、祝祭日の翌日は休館。問い合わせは同資料館(TEL549・0880)まで。

★川路聖謨のかぶと展 5月1日 合同

  ことしは、幕末に勘定奉行として外交などに活躍した同市ゆかりの川路聖謨(かわじとしあきら・一八〇一−一八六八年)の生誕二百年。日田市は、川路聖謨が甲冑(かっちゅう)作りの名人明珍宗保に製作させたとされるかぶとを、市内豆田町の天領日田資料館に展示している。
 川路聖謨は、父親が日田代官所の下級役人で、同代官所で生まれた。父親の転勤で四歳の時、江戸へ。その後、御家人川路家の養子となり、佐渡、奈良、大阪各奉行などを経て、勘定奉行勝手方首座まで上り詰めた。日露和親条約調印や日米通商条約交渉などにかかわったという。
 かぶとは、川路聖謨が江戸幕府の勘定吟味役に就任したのを記念して一八三三(天保四)年、明珍宗保に発注したという。東京都在住の鎧兜(よろいかぶと)研究家石田謙司さん<59>の所有。生誕二百年を記念して市が借り、六月十日まで天領日田資料館に展示している。  

★下郡横穴墓群・横尾遺跡群説明会(4月28日)大分市教委

午前中に下郡、午後横尾というなかなかハードな日でした。詳しくは文化財情報に写真つきで載せています。

お礼  5月26日からの文全協佐賀大会に遠路参加をしていただいた皆さん、お疲れ様でした。 4月21日のシンポジウム「韓国から見た日本の近現代史」には大変大勢の方(50人)の参加を得ました。特に学生が21人も参加されたことは、今後に大きな展望ち確信うぃ与えてくれました。参加者の皆さん、ご苦労様でした。古代史、近代史いずれも歴史の真実を曲げようとする動きがあるように感じます。私達の郷土の歴史が正しく伝わるように,専門家の皆さんにはぜひ、地域住民こそが歴史を生きているのだということを忘れずに研究をしていただきたい。また、我々住民団体も、先祖の真も姿を知り、後の世に伝える責任があることを自覚して活動したい。

★横尾貝塚隣接地(4月13日)−大分県−
 大分市の横尾貝塚の隣接地(同市横尾)の発掘調査を行っている同市教委は、明確な貝層の確認はなされていないものの、縄文時代前期・後期の遺物が出土しており、出土遺物の内容は隣接する横尾貝塚と同様の様相を示していることを明らかにした。出土遺物には中津式、西和田式、コウゴー松式、小池原上層式、西平式、北久根山式、三万田式、轟式などの土器がみられ、多彩な遺物内容を備えているという。考古学通信 4.13 
★国東町の安国寺集落遺跡公園21日オープン 合同  2001年04月07日
  千八百年前の弥生人の暮らしを体感できる「弥生のムラ・安国寺集落遺跡公園」が二十一日、国東町安国寺にオープンする。
 公園は一九九六(平成八)年度から、約十四億七千万円をかけて整備。総面積は四万六千四百平方m。体験学習館を中核施設に発掘体験舎、竪穴式住居、高床式住居・倉庫、ヤマモモやオニグルミの森などがあり、実像に近い弥生時代の風景を再現している。
 園内では、勾玉(まがたま)や石器作り、土器焼き、機織り、古代料理を体験でき、遊びながら歴史を学べるのが特徴。 当日は午後一時から、特別講演会「国史跡・安国寺集落遺跡の復元整備と中国文化交流」が、町内小原の大分空港ホテルである。公園整備に関係した中国浙江省考古学会の毛昭晰会長、九州芸術工科大学の沢村仁名誉教授ら四人が、公園の魅力や将来を二時間半にわたって話す。入場無料。
 また、当日から五月十五日まで「河姆渡(かぼと)遺跡と安国寺集落遺跡交流展」を体験学習館で開催。浙江省にある七千年前の河姆渡、安国寺両遺跡の出土物を比較展示する。
 開園時間は午前九時から午後五時(入館は四時半まで)。体験学習館のみ入館料が必要で一般二百円、子ども百円。休館日は月曜日と祝翌日。 問い合わせは、同公園(TEL0978・72・2677)。

★聖嶽洞穴遺跡も検証へ 考古学協会が調査委   考古学通信 3.26
旧石器時代の人骨や石器の真偽をめぐる疑惑を報道され、当時の発掘調査責任者が自殺した大分県本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡問題で、日本考古学協会は24日、東京都内で開いた定例委員会で、真相解明のため出土品などを検証する調査委員会を発足させることを決めた。-(管理人)この件について合同新聞によれば、甘粕考古学協会会長(前文全協会長)の談話として「問題を整理し、社会に対してきちんとした対応をしたい。個人的には亡くなった賀川さんの潔白を証明するためにも調査する意味があると考えている」と報じています。

1200人無念の別れ 故賀川名誉教授の葬儀
 
「ねつ造」疑惑に抗議して自殺した考古学者で別府大学名誉教授の賀川光夫さん<78>の葬儀が十二日、別府市内の葬祭場でしめやかに営まれた。全国から考古学研究者や教え子ら約千二百人が参列。「抗議の死」だったこともあり、参列者らは、無念の涙をにじませていた。
 葬儀では、黙とうの後、一九九四(平成六)年の別府大学史学科創設三十周年記念フォーラム「磨崖仏(まがいぶつ)の世界」で、賀川さんが臼杵石仏について講演した内容の一部をテープで流し、賀川さんの在りし日の姿をしのんだ。
 この後、別府大学理事長の西村駿一さんら四人が弔辞。西村さんは、博物館長や学長を歴任し、大学とともに歩んだ賀川さんの功績を高く評価。「学者としての姿勢や、人間味あふれる人柄が多くの学生や教職員に尊敬された。その考えや行動を真剣に受け止め、今後、学術研究の推進に取り組みたい」と誓った。
 友人代表の前九州考古学会会長の渡辺正気さんは「同じ学問をやってきた人間は、だれ一人として先生を疑わなかった」と無念の死を悼んだ。歴史と自然を学ぶ会(大分市)の梅木秀徳さんは「学ぶ会の代表として、大学以外に千人以上の教え子を持っていた。歴史や自然に学ぶ先生の姿勢を私たちの中で生かしたい」と話した。
 また、教え子代表で県教委文化課参事の清水宗昭さんが「先生の苦しみを分かち、和らげられなかったことを許してほしい。先生は『考古学は平和な時代じゃないとできない学問』と、平和への願いや学問への情熱を教えてくれた。遺志を継ぎ、先生にこたえられる人間として成長します」と別れの言葉を贈った。
 喪主で賀川さんの長男洋さん<45>が「父が何よりも愛していたのが大学。今後ともよろしくお願いします」とあいさつ。参列者一人ひとりが賀川さんの遺影に花を捧げた。
 葬儀には、慶応大学名誉教授の江坂輝弥さんら全国各地の考古学研究者や、俳優の苅谷俊介さんらも参列。賀川さんの交流の広さをしのばせた。合同 2001.3.13

賀川光夫別府大名誉教授逝く 2001年3.9 
 大分県文化財保存協議会の顧問でもあります、香川光夫別大名誉教授が9日夜、お亡くなりになりました。先生は大分県や九州の考古学の黎明期を引っ張って来られました。
 また、文化財保存を早くから活動して来られ、2000年にも大分市中安遺跡の保存をいち早く訴えました。
 大文協の顧問として、市民、県民と共に文化財保護活動を最後まで率先して進められました。心からご冥福をお祈り申し上げます。 大文協事務局   

●「聖嶽」の地層は、時代がかく乱しているー別大検討委員会発表 3.7  合同
 聖嶽洞穴から出土した旧石器の再検討をしていた別府大学「聖嶽問題検討委員会」(代表・後藤宗俊文学部長)が6日調査結果を発表。
「石器は旧石器時代後期から縄文時代後晩期のもので、人骨と石器が出た層はかく乱していたとみられる」との見解を示した。大学は同洞穴出土の石器について、九州内の旧石器専門家ら17人(別府大学以外)に再検討を依頼。6日高倉洋彰・西南学院大学教授が記者会で再検討の結果を公表した。混入の経緯は不明という。中村学長は「教育、研究機関として誠に遺憾。深くお詫びしたい。今後は資料の管理体制について十分検討し、改善したい」と陳謝した。
 また人骨と石器の関係について、「たとえ人骨が旧石器時代だったとしても、その旧石器人がつかったものかどうか。人骨、石器がいっしょに出土したとは言い難い」とした。ただ高倉教授は「最初の調査が行われた40年前の学問レベルでは、すべて旧石器と判断されるものだった。当初の発掘から約40年ぶりの再調査の学問的な意味は大きい」と話している。

●県教委と県文化財保護審議会和解-文化課長、中安遺跡の扱いについて「不徳の致すところ」と釈明  3.1 合同

 中安遺跡への対応と、県文化財保護行政の在り方をめぐって、県教委と対立していた県文化財保護審議会(後藤宗俊会長、15人)は28日、後藤会長、荒木正憲副会長が記者会見し、「審議会の意見を県教委が前向きに理解してくれた」と両者がほぼ和解したことを明らかにした。2日の第2回審議会では、諮問された文化財指定に対する答申を予定通りに出すと言う。この日の会見で、後藤会長は「県教委の田中恒治教育長や尾形末弘教育次長らと話し合い、審議会の委員らの思いを伝えてきた。その中で、県教委も保護行政にある程度の理解を示してくれた。第二回審議会では委員全員が委嘱状を受け取ることになった。」と話した。後藤会長によると、第二回審議会では、諮問を受けた文化財指定に対する答申を出し、付帯意見として文化財保護行政の改善を要望していくという。会見に同席した山本芳直文化課長は、中安遺跡の扱いについて「不徳の致すところ」と釈明した。

●別府大、聖岳洞穴石器、管理ずさん-石器が倍増        2月末 合同、赤旗

 旧石器時代人かどうかで議論が出ている本匠村聖岳洞穴遺跡について、人骨とともに出土した石器の個数が1961年、62年の調査で14点だったものが、99年の再調査時には26点に「倍増」していたことが判明しました。
 保管している別府大学では、出土品の展示や貸し借りの際に、別の遺跡の石器が混入したのではないかとみていますが、ずさんな管理が問題となりそうです。同大では本年1月末、学内に検討委員会を設置。当時の記録などから石器の整理作業を進めており、3月中にも調査結果を発表する見通しとのこと。
 管理人:県内の出土物がどのような環境で保存されているかを考えると、別府大だけでなく各自治体もお寒い限り。いずれにせよ学問が進歩すれば再検討は当たり前、それでこそ科学だろうと思います。別府大ににはこれを機に最新の学問レベルでの検討を期待します。

★田和山遺跡を考える会事務局長の加藤暁です。 田和山保存住民訴訟、去る21日の公判で、ついに住民勝利で終止 符です。2.22
新聞記事を引用してホームページに詳報を載せました。 田和山南北分断など残された課題があるので、「考える会」では、 新しい住民運動を起こしていきたいと考えています。 住民監査請求、住民訴訟を、前回を上回る規模で進めたいと考えて います。 詳細は、椎名慎太郎、松木武彦両先生を迎える講演会で、発表しま す。
下記のホームページをどうぞ。
 なお、田和山に市立病院をという市長の意向に対し、市民がどう受 け取っているかについては、松江青年会議所が行なった市民アン ケートが、約千人の回答をまとめ今月中には発表の運びで、重要な 判断の資料になるでしょう。 では、またね。
〒690−0014 松江市八雲台1−12−30 加藤 暁(さとる) http://fish.miracle.ne.jp/dawnkato/

●大友氏関連遺跡「保存、活用を」大分県と大分市に市民団体が要望(大文協も加盟)
大分市の大友館など中世・大友氏にゆかりのある遺跡について、「大友氏関連遺跡の保
存を考える会」は15日、歴史公園や博物館として整備することなどを県と市に要望した。考古学通信 2.19

●「大友館跡」、7月にも国指定に決定の見こみ  2.8 合同

大分市教委は7日、同市顕徳町の「大友館跡」の一部について、県教委を通して国指定史跡の申請をした。今回申請したのは、地権者の同意が得られた約1万平方bで、同館跡(推定約4万平方b)の4分の1に当たる。早ければ、4月の国文化財保護審議会で指定が答申され、7月頃の官報告示で正式に決まる見こみ。これにより、土地公有化と今後の保存整備に弾みがつきそうだ。大友館跡の国史跡指定については、文化庁が館跡の歴史的重要性を評価し、すでに、指定方針を明らかにしている。国指定となれば、土地公有化の際、国が8割を補助、残りの2割を地元の県と市が負担する。市教委は新年度以降も館跡の確認調査を継続し、今後、館跡全体の国史跡指定と土地公有化を目指す。

管理人:県も市も中安遺跡破壊の責任を深く反省した上で、大友館跡の保存に対し前向きに取り組んでほしい。大分市民、県民が来県者に、そして子供たちに胸を晴れるものになったらいいですね。その上で、大分市にたいしては、一点豪華主義にならないように、他の史跡保存に対しても積極的に取り組んでもらいたい。

★「聖嶽人」は江戸時代か 骨の形態から指摘  合同 1.22
二十一日に開かれたシンポジウム「前期旧石器問題を考える」で国立科学博物館の馬場悠男人類研究部長が、後期旧石器時代(約一万五千年前ごろ)の人骨と石器が出土したとされてきた本匠村の聖嶽(ひじりだき)洞穴遺跡について「人骨は江戸時代のものと似ている」と指摘した。  
 聖嶽遺跡は一九六二(昭和三十七)年に発掘された石灰岩鍾乳洞で、日本考古学協会の調査団が発掘調査。同時代の石器と人骨が一緒に出土したのは国内で例がなく、中国大陸との関係から日本人のルーツを探る点で注目されていた。  
 九九年十二月から、三十七年ぶりに、発掘調査団が再調査に入った。洞穴内で新たに発掘した人骨については、フッ素含有量の測定などにより、旧石器時代よりも新しいものと結論付けた。さらに「以前、発掘した頭骨についても、検討が必要」としていた。  
 馬場氏は人骨のレプリカ(模型)から形態学的に調査。骨の厚さや発達部位の特徴から「原始的特徴は認められず、江戸時代に発見された人骨の中に似ているものが数多くある」と疑問を投げかけた。  
 人骨は新潟大に保管されており、シンポを主催した文部科学省研究班が人骨のDNA鑑定を実施できるよう同大に協力依頼していることも明らかにされた。

★遺跡保存を巡り大分県文化財審議委員が反旗
大分県文化財保護審議会(会長、後藤宗俊・別府大教授)の委員15人のうち、遺跡の保 存をめぐって県教委と対立した10人が、委員委嘱状を受け取らず、「会長預かり」にな っていることが分かった。
審議会は、県教委の諮問を受け、文化財を県指定にするかど うかなどを話し合う機関。今年度末の審議会に調査報告書が提出されない恐れも出てい る。考古学通信 1.20
   詳しくは文化財情報

★小松の古墳、金沢へ移設/石川県埋文センター
石川県埋蔵文化財センターは9日までに、小松市八幡町にある古代(7世紀)の古墳を 金沢市中戸町で建設中の歴史体験公園(仮称)に移設する方針を固めた。既に幅約3m、 長さ約5mの埋葬室を原形のままこん包しており、今月中に金沢へ”引っ越し”する。 古墳を切り取って移設するのは県内初めて。移設する室は石川独特の墓の構造であり、 同センターでは、見学者に石川の風土を考える上で参考にしてほしいと期待している。考古学通信 1.16
(管理人-古墳の引越しなんてするんですね。現地保存はできないのでしょうか。「石川」の風土に重点をおいた結論なのでしょうか。皆さんのご意見を聞きたいところです。)

★元寇防塁保存どうする 進む開発、遺構次々/福岡市 
700年以上前の鎌倉時代、元の襲来に備えて博多湾沿い約20キロにわたって築かれた 元寇防塁が、都市開発によって次々に見つかり、福岡市は、開発か保存か、の難しい選 択を迫られつつある。 考古学通信 1.16

◎「聴潮閣」開館。「一松邸」一般公開へ。  1.7  合同
@別府市青山町で、昭和初期の高級住宅として知られる「 聴潮閣」が「 聴潮閣高橋記念館」として6日オープンしました。
 同建物は1929年(昭和4年)、別府商工会議所初代会頭・高橋欽哉氏の住宅として浜脇に建てられ、89年に現在地に移されたもの。木造二階建て入り母屋作りで、台湾ヒノキがふんだんに使われ、アールデコ風の応接間などが特徴とのこと。
 94年にいったん閉館。昨年9月から、別府八湯ウォークの「山の手レトロ散策」に協力をして参加者の見学を受け入れていた。
 高橋館長は「昭和初期の住宅も文化財として認められる機運が高まり、周囲からも開館を期待する声も上がっていました。今後、美術館のような形で運営していきたい」と話している。


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杵築市は、南台の多目的広場に移築した「一松邸」を1月中にも一般公開することを決めた。同建物は元国務大臣の一松定吉さんが自宅として建てたものだそうです。1929年(昭和4年)に完成。木造一部二階建て(延べ302平方メートル)。高級な木材を使ったぜいたくな木造建築だそうです。観覧料は一人50円(小学生以上)。広場は高台にあり、杵築城や守江湾が見渡せるそうです。
 (管理人ー大文協が訴えてきた県内の近代化遺産の保存に対して、「 聴潮閣」や「一松邸」のような、いわば新しい建物が保存されようとしていることは、望ましいことと思われます。「 聴潮閣」はコーヒーも飲めるそうです。3月末まで土曜、日曜、祝日の午前10時から午後4時まで開館。入館料は300円だそうです。正式開館は4月だそうです。)


◎豪華だった中世・府内祇園祭  1.7 合同

 県立先哲資料館の主任研究員、鹿毛敏夫さんのまとめた論文「中世豊後府内の祇園会と大友氏」によれば、四百年以上前の中世「府内祇園祭」は一万人以上の町人と四・五万人もの武士でにぎわい、町中を7基の山鉾が練り歩き、大友水軍の船鉾が武威を誇り、豪華で勇壮な祭りであったことがあきらかになった。
 この祭りは12世紀末の大友氏初代・能直のときに始まり、その後、大友氏八代氏時が足利氏の許しを得て、山鉾巡行の次第を京都の祗園会に準じさせた14世紀半ばに盛大な山鉾巡行となったとのこと。近世にはいってからは、規模を縮小したが、明治はじめまで続いたらしいとのことです。
 現在、大分上野ヶ丘高校そばにある弥栄神社に、近世の祗園会の面影を伝える木製車輪(直径約1m)が残っていると写真入りで報じています。
 鹿毛さんは記事の最後で「
五百年以上続いた伝統的な祭りが、途絶えたのは残念。祗園は町衆の祭りで、中でも中世は、豊後をまとめ、諸国に勢力を誇る一大イベントだった。フロイスの表現は誇張としても、あらためて当時の府内町のにぎわいを感じた」と述べている。

◎国見町-墨書土器出土、石原遺跡・小中野A遺跡・小中野B遺跡(12月16日) 
 国見町にある近接する3遺跡から、調査を実施した同町教委は、「宮」「益」などの文字が書かれた8世紀初頭の土器片7点が出土したことを明らかにした。文字が書かれた土器片が出土したのは、石原遺跡をはじめ、同町多比良の小中野A、小中野B遺跡で、皿(直径約10cm)の底に墨で書かれた「宮」や「万」、へらで刻んで書かれた「益」や「上」など7点が見つかった。県内ではこれまでに11遺跡から17点の文字が書かれた土器が見つかっているが、これだけまとまって見つかったのは初めてだという。 石原遺跡は標高約60mの丘陵に、小中野A、B遺跡は標高約50mの水田地帯に位置し、飛鳥・奈良時代の寺院跡とみられる同町多比良の五万長者遺跡に近接する。これまでに柱の穴や溝、建物跡などが出土しており、地方支配の拠点で役所の役割を果たした「郡衙」の存在も推定されている。考古学通信

◎会所山山頂(12月13日) 日田

 以前、文化財情報でお伝えした、日田会所山の遺跡について考古学通信から以下の記事がおくられてきましたが、同じ日の合同新聞によれば、市教委の調査では、地下には大きな石の反応はないということでした。
 《日田市日高にある会所山(よそやま)山頂(標高164m)で、12日、同市教委は発掘調査を開始した。調査は今年の5月に久津媛(ひさつひめ)と日田の古代を語る会」が磁気探査を実施して、地下1.5m付近に7m四方の平たい石の反応があった会所山の通称「コレラ坊主」で始まった。会所山は鬼道をよくした卑弥呼の奥津城(墓所)との説もあり、付近の遺跡からは、金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」(重要文化財)も出土している。初日の調査では、幅1m、長さ7mのトレンチを深さ20cm掘り下げ、古墳時代の土師器片3点が出土したという。》

●竹田、中川家の文書大量に出土。-東京、築地 NHK・合同

東京の築地で竹田藩主中川家の屋敷後から、大量の古文書が出土した。このニュースはすでにNHKで流されてたので、見た方もいると思います。合同新聞が12月8日付け紙面でくわしく報じました。幕末の大火事の際に穴倉に保存され、蒸し焼きになったので残ったもののようです。その後洋館などが建てられ、時代の激変の中で地中に眠っていたのです。合同新聞の記事にあるように、竹田市、大分県はこの文書をぜひ県内で保存・研究できるようにしてほしい。
★「郡衙跡地の保存を」/神奈川、川崎地域史研などが要請
川崎地域史研究会と歴史教育者協議会川崎支部は20日、7世紀後半からの武蔵国橘樹郡 衙(たちばなぐんが=郡の役所)跡地とみられる川崎市高津区の千年伊勢山台遺跡を保 存するよう求める要請文を川崎市に提出した。 2000.11.24考古学通信
◎ 大文協、大分県、市に中安遺跡の破壊に抗議し、重ねて文化財の保存を要望。
 
私たち、大文協は17日、大分市と大分県の両者の対して、道路建設のため大分市が中安遺跡を破壊したことに抗議し、二度とこのような“過ち”を繰り返さないように、今後の文化財行政の改善を求める要望書を提出しました。   抗議・要望書


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